ヘレニズム世界における改宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 04:31 UTC 版)
「仏教の歴史」の記事における「ヘレニズム世界における改宗」の解説
アショーカ王碑文には、ヘレニズム世界に仏教を広めることに努めたという記述がある。当時のヘレニズム世界は、ギリシアからインドとの国境地帯まで途切れのない文化的連続体を形成していた。アショーカ王碑文からは、主要なギリシア人国家の名前や所在地域が記されるなど、ヘレニズム世界の諸国家の政治組織について明確な理解がなされていたことが窺える。アンティオコス2世(紀元前261年 - 紀元前246年)のセレウコス朝王国(首都は現在のトルコのアンティオキア)、プトレマイオス2世(紀元前285年 - 紀元前247年)のプトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス2世(紀元前276年 - 紀元前239年)のアンティゴノス朝マケドニア、キュレネのマガス(英語版)(紀元前288年 - 紀元前258年)によるキレナイカ(現在のアフリカのリビア)、アレクサンドロス2世(紀元前272年 - 紀元前255年)のエピロス(現在のギリシア北西部地域)、などの国々が仏教への改宗の受け手として記されている。アショーカ王碑文の一節には下記のような記述がある。 「国境から600ヨージャナ(由旬、5,400 – 9,600km)離れたところ、ギリシア人の王アンティオコスが統治するところ、その向こうにあるプトレマイオス、アンティゴノス、マガス、アレクサンドロスの4人の王が統治するところまで、南方においても同様に、チョーラ、パーンディヤ、タンバパニ(英語版)(スリランカ)に至るまで、ここに法による支配は勝ち取られた。」(アショーカ王碑文、第13大摩崖碑文(英語版)。S. Dhammika) さらに、スリランカの叙事詩『マハーワンサ』 (XII) によれば、アショーカ王の使者の中には、ダルマラクシタ(英語版)をはじめとしたヨナ(Yona)と呼ばれるギリシア人たちがいた。ヨナたちは、ギリシア語とアラム語で書かれたアショーカ王碑文を建立した。現在のアフガニスタンにあるカンダハールから発見された碑文(カンダハール2言語併用碑文(英語版)も参照。)には、ギリシアの社会に「敬虔さ」(ギリシア語のエウセベイア(希: εὐσέβεια、 英: Eusebeia)という用語を用いており、サンスクリット語ではダルマ(梵: Dharma)にあたる。)を採り入れるよう求めているものもある。 これらの交流がどの程度影響力があったか不明であるものの、ロベール・リンセン(英語版)は仏教は当時の西洋の思想や宗教に影響を与えたと述べている。リンセンは、当時のヘレニズム世界にはアレクサンドリア(アレクサンドリアのクレメンスが言及)などに仏教徒のコミュニティが存在したこと、西暦紀元前にテラペウタイ派(英語版)(Therapeutae。パーリ語の「テーラワーダ(上座部) 、巴: Theravāda)」の変形の可能性がある。)という会派が存在し、彼らが「仏教の禁欲主義の教義と習慣からほぼ完全な形でインスピレーションを受けている」可能性があること 、また彼ら自体がアショーカ王が西洋に派遣した使者の末裔である可能性さえもあることを指摘している。キュレネのヘゲシアス(英語版)やピュロンのような哲学者は仏教の教義に影響を受けたと考えられることもある。 アレクサンドリア(現在のエジプト。)からは、法輪が描写されたプトレマイオス朝時代の仏教徒の墓碑も発見されている。アレクサンドリアに仏教徒が存在したことから、彼らがキリスト教の修道院生活に影響を与えたかもしれない。2世紀のキリスト教の神学者アレクサンドリアのクレメンスは、バクトリアのシュラマナ(śramanas。沙門のこと。)と、インドのギムノソフィスト(英語版)の双方がギリシアの思想に影響を与えたと認識している。
※この「ヘレニズム世界における改宗」の解説は、「仏教の歴史」の解説の一部です。
「ヘレニズム世界における改宗」を含む「仏教の歴史」の記事については、「仏教の歴史」の概要を参照ください。
- ヘレニズム世界における改宗のページへのリンク