ヘレニズム影響下のパルテノン
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「パルテノン神殿」の記事における「ヘレニズム影響下のパルテノン」の解説
紀元前4世紀に入ると、アテナイはアレクサンドロ大王のマケドニア王国によるヘレニズム文化の影響下に入る。ギリシア文化を後継したヘレニズム時代の王たちは、パルテノン神殿を尊重しつつも自らの王位を権威づける場として用いた。紀元前1世紀にベルガモン国王は神殿に彫刻群を奉納したが、その中にはガリア人との戦いを描いたものが含まれていた。さらに後のローマ皇帝ネロのパルティア戦争をモチーフとした彫刻がアテナイ人によって加えられた。これらは、ヘレニズムやローマ帝国がギリシアの後継者たることを知らしめる目的を持っていたが、それゆえにパルテノン神殿は保たれる結果に結び付いた。 ペルシア撃退を記念したパルテノン神殿だが、その後のゲルマン人侵入による被害を受ける事もあった。アテナイは267年にヘルリア族、396年には西ゴート族に包囲されたが、このいずれかの戦闘でパルテノン神殿は放火され木製の梁が焼け落ちるなど被害を受けた。その後、ローマ皇帝の命で神殿は修復されるが、それは旧来の姿へ完全に戻すものではなく、屋根は部分的にしか架けられず、柱もヘレニズム的なものへ変わった。
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