プロ野球選手時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:44 UTC 版)
父の亀億(ひさお)は国鉄(現・JR西日本)岡山駅の助役であったが、終戦後に退職し、芝居小屋兼業の映画館を経営していた。 9歳で1945年の岡山大空襲に遭遇し、父の命で母・姉とともに後楽園に逃れた。猛火と黒煙が立ち込める中で方向感覚を失い、逃げ惑う人波に巻き込まれて家族ともはぐれてしまった。朝になり、雨が降る田んぼの中で倒れていたところを地元の消防団員に助け出された。幸い、一家は全員無事で芳田村米倉(現・岡山市南区)の親類宅や父親の部下宅に身を寄せたものの、小学校の同級生を何人も失ったり、広島市への原子爆弾投下により同市在住の軍医の叔父が被爆死するなど悲惨な経験を味わった。 その後疎開先の平島(現・岡山市東区)で終戦後に連合国軍の兵士がキャッチボールに興じる姿を見たことがきっかけで、野球を始める。父はテニス選手だったためスポーツには理解があり、逆に劇場主として役者と接して生活を知っていたことから、役者への道には反対したという。のちに八名がプロ野球入りしたときに父は東映フライヤーズが岡山でキャンプを張る援助もしたが、八名が23歳の時に肝臓がんにより死去。 出身小学校の岡山市立出石小学校は都市空洞化によるドーナツ化現象で児童数が減少し、2002年3月に廃校となった。閉校式には八名による講演会が行われた。 岡山東商に進学。一塁手であったが、1年下の横溝桂とともに投の二本柱としても活躍する。在学中に甲子園には出場できなかったが、1953年春の中国大会県予選では決勝に進み先発。横溝との継投で関西高の吉岡史郎に投げ勝ち優勝、本大会に進んでいる。高校の2学年先輩に、のちに大洋ホエールズで活躍する秋山登、土井淳がおり、明治大学に進学していた。その縁から修学旅行のとき、神宮球場で明治大学の試合を観戦して進学先に決める。大学では投手として将来を期待されていたが、先輩部員からの「しごき」に耐えられずに2年次に中退。 1956年にプロ野球・東映フライヤーズに投手として入団。1年目から一軍に上がり9試合に登板、うち2試合に先発し0勝1敗を記録。その後も一軍で起用されるが、3年目の1958年8月10日、日生球場での近鉄パールス戦の試合中に腰を骨折して入院し、選手生命を断たれて現役を引退した。現役引退後も東映フライヤーズ、北海道日本ハムファイターズOBで組織する『フライヤーズ・ファイターズOB会』のメンバーの一員でもある。
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