プラモデルの「箱絵」ヒットメーカー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 05:39 UTC 版)
「小松崎茂」の記事における「プラモデルの「箱絵」ヒットメーカー」の解説
小松崎の名声が後世も不動のものとなった要因に、プラモデルなどのボックスアート(箱絵・パッケージアートとも言われる)などに使用されるイメージ・イラストを多く手がけたことが挙げられる。主に1960年代から1970年代にかけてプラスチック製の子供向け玩具が主流となり、プラモデルが飛躍的に製造・普及し始めた頃である。プラモデルメーカーとして艦船・戦車を手がけるタミヤ、サンダーバードの今井科学、1/76戦車模型の日東科学、1970年代のロボットアニメのバンダイなど模型業界の各社から彼は依頼を受けた。描かれたイラスト作品は各メーカーの要望に合致し、なおかつさらに上回る魅力と迫力があった。戦前からのイラストレーターとして、第一次プラモデルブームに貢献した第一人者となる。 1961年当時、タミヤが多額の金型開発費を投入して社運をかけたモーターライズ戦車プラモデル「パンサータンク」を制作。そこでプラモデルを販売する際の最大のアピールポイントである箱絵が小松崎に依頼され、タミヤの経営状況を知った小松崎は多忙であるにもかかわらず快諾した。彼の描く「パンサータンク」は、硝煙やオイルの匂いさえ漂うような迫力溢れる箱絵で発売された。よく走る戦車プラモと小松崎の画力で製品はヒット商品となり、その後のタミヤの経営が軌道に乗るきっかけとなった。現在パンサータンクの原画はタミヤ本社の金庫に厳重に保管されている。以後しばらくは、タミヤを中心としたボックスアートを描き続け(1961-1972年)初期の「タミヤ」ブランドのイメージ作りに貢献した。のちに弟子筋に当たる高荷義之、上田信もタミヤの箱絵を手がける事になる。またタミヤには小松崎の紹介で優秀な人材が入社している。1963年には当時、柏市内で模型店主として小松崎邸に出入りしていた橋本健次郎が入社し、後に零戦52型の設計を担当、模型愛好家から絶賛される。翌1964年には小松崎の遠縁に当たる長倉大陸が入社し、後にミニ四駆ブームの立役者となった。1966年、タミヤでは社内でイラストレーターを養成する必要に迫られていた所、小松崎の弟子に当たる大西将美が入社し筆を振るった。白地の背景に大西の精密なイラストが載った箱絵は、「ホワイトパッケージ」と呼ばれ親しまれた。 その後今井科学も「小松崎メカニカルアート」に着目した。当時のテレビ放映で話題だったサンダーバードのキャラクタープラモデルを製品化するにあたり、箱絵を託すべく小松崎の弟子の高荷義之に仲介を依頼し、小松崎の了解を得て描かれた。基地から飛び立つ迫力ある箱絵は、1967年に発売された「サンダーバード2号」を空前の大ヒット・ブームをにする原動力となった。サンダーバードはシリーズ化され、殆どのボックスアートを小松崎が引き受けている。主役メカ以外のボックスアートにも必ず「サンダーバード2号」は描いて欲しいと今井科学の要望を受け入れ、すべての箱絵にそれが描き込まれた。当時の今井科学の1968年度売上げ目標20億を上回る26億円を達成するほどに人気を博した結果、他のメーカーからも作画依頼が殺到することとなった。
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