ブルラン牧場とジャクソン夫妻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 21:38 UTC 版)
「ボールドリック」の記事における「ブルラン牧場とジャクソン夫妻」の解説
ボールドリックは、アメリカ東部のバージニア州・ミドルバーグ(Middleburg)にあるブルラン牧場(Bull Run Stud)で生まれた 。生産者であり馬主であるハウエル・E・ジャクソン夫妻はのちに「バージニア州・馬の名誉の殿堂」入りをした人物である。 夫妻はヨーロッパの競馬にも挑戦しており、ヨーロッパでは「ハウエル・E・ジャクソン夫人」名義で走らせた。このため、夫妻のヨーロッパの競走馬の名義はたいてい「ハウエル・E・ジャクソン夫人」と表記されるが、「ドロシー・ジャクソン」や「ブルラン牧場」、「ハウエル・E・ジャクソン夫妻」などのように表現される場合もある。 故郷ヴァージニア州ミドルバーグ ミドルバーグはワシントンD.C.郊外から西へ1時間ほどの距離にある町で、「馬術の聖地(Nation's Horse and Hunt Capital),(equestrian mecca)」と呼ばれている。ミドルバーグはもともと18世紀に遡る宿場町で、イギリスの田舎町を思わせる植民地時代風の建物がならび、「赤狐亭(The Red Fox Inn & Tavern)」といった歴史的建造物が多くある。20世紀になると、ミドルバーグにはキツネ狩りや馬術 の愛好家が集まるようになった。町には馬事に関する博物館(National Sporting Library)も設けられている。 ハウエル・E・ジャクソン ハウエル・エドモンド・ジャクソン(Howell Edmunds Jackson)は連邦最高裁判所の判事や上院議員を務めたハウエル・E・ジャクソン(シニア)(Howell Edmunds Jackson)の息子である。ハウエル・シニアの弟のウィリアム・ジャクソン(en:William Hicks Jackson)は、南北戦争時には南軍の将軍で、19世紀のアメリカの代表的なサラブレッド生産牧場だったベル・ミードの所有者だった。ジャクソン家は綿花生産で財を成した大富豪でもあり、ジャクソン家が使用する勝負服はアメリカで一番古い1825年から使われているものである。ハウエル・E・ジャクソンはこのベル・ミードで生まれ育った。ベル・ミードはケンタッキー州にほど近いナッシュビルにあり、ハウエルはナッシュビルのヴァンダービルト大学とジョージ・ワシントン大学の法学部で学び、ゼネラルモーターズの重役を務めた。ハウエルはミドルバーグの土地を買い、オーナーになった。さらに1938年にはオーケンデール牧場(Oakendale Farm)を購入し、ウィリアム・L・ボトムリー(William Lawrence Bottomley)という建築家に依頼してコロニアル風の屋敷を整備した。この屋敷は、いまはアメリカ合衆国国家歴史登録財となっている。 ハウエル・E・ジャクソン夫人 夫人は旧姓をドロシー・パターソン(Dorothy Patterson)といい、ナショナル・キャッシュ・レジスター・カンパニー(National Cash Register Company) の社長令嬢である。1935年にドロシーはミドルバーグで227エーカー(約1平方キロ)の土地を購入し、やはりボトムリーに依頼してコロニアル趣味の豪壮な邸宅を建設した。この建物もまた、アメリカ合衆国国家歴史登録財である。このほかドロシーは、1930年代にミドルバーグの近郊の各地に100エーカー単位でいくつも土地を持つようになっていった。 ブルラン牧場 ハウエルには何度かの結婚歴と離婚歴があった。ドロシーは1940年に夫と死別していた。ハウエルとドロシーは1942年に結婚し、ハウエル・E・ジャクソンとドロシー・パターソン・ジャクソンの夫妻となった。 夫妻はミドルバーグ近郊にフォーキア郡とラウドン郡にまたがって広大な土地を持つ大地主になった。夫妻は、オーケンデール農場、ブルラン牧場(Bull Run Stud)とハウエルEジャクソン・レーシングという3つの組織からなるサラブレッド競馬のための複合事業を営んだ。「ブルラン」(Bull Run)というのはもともとはブルーリッジ山脈の一部をなすブルラン山脈(Bull Run Mountains)などの地名だが、とりわけ南北戦争の大会戦のひとつブルランの戦いで知られている。ジャクソン夫妻の広大な土地は、ブルラン山脈を見晴らす場所にあった。 彼らの競馬事業が最初に成功をおさめたのは1944年である。仔馬の頃に買ってきたレッドシューズ(Red Shoes)という牝馬をニューヨークの競馬に出すと、ピムリコオークスやテストステークスに勝った。後年、夫妻はニューヨークに設けた厩舎にこの活躍馬の名をとって「レッドシューズ厩舎」と名づけている。レッドシューズはブルラン牧場の繁殖牝馬となり、1955年の全米2歳牝馬チャンピオンであるナスリナ(Nasrina)を産んだ 。夫妻のチームは、ほかにも1950年代にマスキットステークスに勝ったバレリーナ(Ballerina)を送り出した。バレリーナはサラトガ競馬場のバレリーナステークス(2014年はG1に格付け)にその名前を残している。1958年にヴォスバーグステークスなどに勝ったティクタック(Tick Tock)や、1960年代の活躍馬ラフアラウド(Lough Aloud)もジャクソン夫妻による生産馬である。 夫妻がヨーロッパで最初に大きな成功をあげたのが、ラフアラウドの半姉のネヴァートゥーレイト(Never Too Late)である。ネヴァートゥーレイトはフランスに送り込まれ、2歳時にタイムフォーム誌によるフリーハンデで全欧2歳牝馬チャンピオンとなり、3歳になって1960年のイギリスの1000ギニーとオークスを制した。また、1962年には、この年から大幅に賞金が増額されてヨーロッパ有数の高額賞金競走に生まれ変わったアイルランドダービーへタンバリン(Tambourine)を送り込み、優勝した。 ボールドリックはこれらの成功馬に続いて2歳(1963年)のときにヨーロッパへ送り込まれ、オーストラリア出身のアーニー・フェローズ調教師(Ernie Fellows)がフランスのシャンティイに開設する厩舎に入った。このほか、ボールドリックよりは1歳年上だが、活躍時期はボールドリックと同時期になるナスラム(Nasram)も、夫妻によってフェローズ厩舎へ送られた1頭である。
※この「ブルラン牧場とジャクソン夫妻」の解説は、「ボールドリック」の解説の一部です。
「ブルラン牧場とジャクソン夫妻」を含む「ボールドリック」の記事については、「ボールドリック」の概要を参照ください。
- ブルラン牧場とジャクソン夫妻のページへのリンク