ブルゴーニュ公の棺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 13:44 UTC 版)
「シャンモル修道院」の記事における「ブルゴーニュ公の棺」の解説
ヴァロア=ブルゴーニュ公爵家によるブルゴーニュ支配は100年も続かず、シャンモル修道院に葬られたヴァロア家の人数は、以前にブルゴーニュを治めシトー会大修道院に葬られたカペー家に及ばない。シトー会大修道院の内陣はカペー家の棺でほとんど埋め尽くされていたが、シャンモル修道院に収められたブルゴーニュ公の棺は2つだけだった。どちらも祈りをささげる生前の姿を模した彩色アラバスター彫刻が施され、足元にはライオン、頭頂には羽を広げた天使の彫刻がおかれている。その下には無彩色の40cmほどの小さな「嘆く男たち (pleurants)」が、ゴシック様式の飾り窓とともに配置されている。これらの墓はヨハン・ホイジンガの『中世の秋』に「これ以上ない心からの哀悼を表現した芸術作品、石でできた葬送曲」と書かれている。 フィリップ2世は1404年に死去し、公妃マルグリットもその翌年に死去した。マルグリットはリールにある両親(フランドル伯ルイ2世夫妻)の墓に埋葬されることを望んでいたため、フィリップ2世は自身だけの墓を作る構想を立てており、死去する20年以上前の1381年にジャン・ド・マルヴィルに棺の制作を依頼した。1384年になってから着手された制作はなかなか進まず、遅れを取り戻すために1389年に彫刻家クラウス・スリューテルが投入される。しかしフィリップ2世が死去した1404年の段階では二つの彫刻と枠組みしか完成していなかった。息子でブルゴーニュ公爵を継いだジャン1世(ジャン無怖公)はスリューテルに対し棺の完成までにさらに4年の猶予を与えたが、スリューテルはその2年ほど後に死去してしまう。その後スリューテルの甥で助手も務めていたクラウス・ヴェルウェが作業を引き継ぎ、1410年に棺の彫刻全てを完成させ、画家ジャン・マルエルが彫刻に彩色を行った。 ジャン1世も自身の棺を作りたいと考え、父フィリップ2世の棺を模した、公妃マルグリットと二人で一つの棺を望んだ。しかし1419年にジャンが死去するも、その後1435年になるまで計画はまったく進んでいなかった。さらにヴェルウェも1439年に棺の製作に十分な量のアラバスターを入手できないまま死去してしまう。1433年にスペイン人ジャン・デ・ラ・フエルタが雇われ、ディジョンを去る1456年までにほとんどの作業を完成させた。その後別の芸術家が後を引き継ぎ、棺が全て完成したのは、ジャン1世の息子ブルゴーニュ公フィリップ3世(フィリップ善良公)がすでに死去した後の1470年になってからだった。フィリップ3世は自身の棺には関心がなかったようで、当初死去した場所のブルッヘに埋葬されていた。数年後フィリップ3世の後嗣ブルゴーニュ公シャルル(シャルル豪胆公)がフィリップ3世をシャンモル修道院に改葬したが、新たな棺の製作は計画されなかった。1477年のナンシーの戦いで亡くなったシャルルの遺体は、1558年に曾孫神聖ローマ帝国皇帝カール5世によってナンシーからブルッヘに改葬されている。 ジャン1世の棺のデザインはフィリップ2世の棺を模倣している。ジャン1世の棺の彫刻「嘆く男たち」などはフィリップ2世のそれの完全なコピーだが、二つの棺の完成には100年近い年月がかかっているため様式的な相違が見られる。フィリップ3世が、フィリップ2世とジャン1世の肖像画が飾られていた修道院の内陣に自身の肖像画も飾らせたという記録が残っている。オリジナルの肖像画は残っていないとされ、現存しているのはそれらの肖像画の模写と考えられている。 フランス革命のあとシャンモル修道院は売却されることになり、歴史的重要性が評価されていた二つの棺は1792年にディジョン大聖堂 (en:Dijon Cathedral) に慎重に移された。しかし翌年ディジョン大聖堂は恐怖政治下の共和国政府によって「理性の殿堂 (en:Temple of Reason)」へと改宗されてしまい、棺の彫刻は破壊されてしまう。現在ブルゴーニュ大公宮殿に併設されているディジョン美術館「衛兵の間」で見ることが出来る棺は復元されたものである。10体の嘆く男たちの彫刻をはじめさまざまな歴史的遺物ともいえる彫刻が「上品な略奪者たち」によって持ち去られてしまった。
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