バルトロメエステバンムリーリョとは? わかりやすく解説

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ムリーリョ【Bartolomé Esteban Murillo】

読み方:むりーりょ

1617〜1682]スペインバロック代表的画家セビーリャ派の指導的存在となり、聖母像などの宗教画風俗画描いたムリリョ


バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 01:49 UTC 版)

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
Bartolomé Esteban Murillo
生誕 (1617-12-31) 1617年12月31日
スペイン帝国セビリア
死没 1682年4月3日(1682-04-03)(64歳没)
スペイン帝国セビリア
著名な実績 油彩画(宗教画・風俗画)
運動・動向 バロック
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バルトロメ・エステバン・ペレス・ムリーリョ(Bartolomé Esteban Perez Murillo, 1617年12月31日 - 1682年4月3日)は、バロック期のスペイン画家17世紀スペイン黄金時代美術の歴史を代表する画家である。

「ムリーリョ」は「ムリリョ」とも表記する[1]。甘美な聖母像や、愛らしい子どもの絵を数多く手がけた。

経歴

ベネラブレスの無原罪の御宿り』1660-1665年 (または1678年頃)。プラド美術館所蔵。
『聖母子』1655年-1660年頃。ピッティ宮殿所蔵。
ブドウとメロンを食べる子供たち』1645年-1650年。アルテ・ピナコテーク所蔵。
犬を連れた少年』1655年-1660年。エルミタージュ美術館所蔵。

1618年、スペイン南部のセビーリャに民間医師の子として生まれる[2]。14人兄弟の末子で、幼い頃に両親を亡くし、姉夫婦のもとで育てられたというが、その名声に比して伝記の細かい部分には不明点が多い。1645年には最初の大規模な注文である、セビーリャのフランシスコ会修道院の装飾事業を手掛けた[2]1659年までフアン・デル・カスティーリョの元で修業を積んだ[3]。一時期マドリードに移住したという説とこれを否定する説とがあり、マドリードに移住したとされる時期についても諸説があるが、いずれにしても生涯の大部分をセビーリャ周辺で過ごしている。1682年にカディス(セビーリャ南方の海辺の町)の修道院で制作中、足場から転落したことが原因で死去したという。

画風

初期はテネブリスモを中心とした様式であった[2]。1650年代以降、フランシスコ・エレーラ (子)の影響により、作品に色彩豊かな表現が見られるようになった[2]。スティロ・バポローソ(薄もやの様式)と称される、画面全体が薄もやに覆われたような夢幻的な作風は、1670年頃からの晩年の作品に顕著である。

聖母マリアの純潔性を表した『無原罪の御宿り』を題材とした絵を何枚か残している。特にセビーリャ美術館に所蔵されている『フランシスコ会士たちの無原罪の御宿り』の、夢見る乙女のようなマリア像と彼女を取り巻く可憐な小天使たちのイメージは、次の世紀のロココ美術を先取りしている感がある。疫病で亡くしてしまった自分の子供達を愛しむかのように、子供を描いた絵も多数残している。ぼろをまとった貧しい少年たちをありのままに描いた風俗画にも傑作がある。彼は子供を次々と5人もペスト等で亡くし、6人目の娘も耳が聴こえなかったため、その娘を思い最高傑作の無原罪の御宿りを描いた。

代表作

ギャラリー

脚注

  1. ^ デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. 2018年1月14日閲覧。
  2. ^ a b c d プラド美術館 et al. 2002, p. 231
  3. ^ Britannica Japan Co.,Ltd.; Encyclopædia Britannica, Inc.『ムリリョ』(小項目電子辞書)、2007年。 
  4. ^ 池上英洋『西洋美術史入門』筑摩書房、2012年、91頁。ISBN 978-4-480-68876-7 

参考文献


バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:02 UTC 版)

スペイン黄金時代美術」の記事における「バルトロメ・エステバン・ムリーリョ」の解説

1618年セビリア生まれた彼は当初セビリア伝統自然主義的な作品作っていたが、ルーベンス影響汲んだフランシスコ・エレーラの作品学び、豊かで柔和な色彩表現編み出した1645年セビリアフランシスコ会修道院装飾名を馳せ先輩スルバラン地盤を脅かす存在へと成長していった。その後フランシスコ会関係の仕事任されるようになり、画家としての地位確固たるものにすると、教会以外の富裕な市民向けにも作品を描くようになる彼の描く柔和で優し気な人物像人々支持得てセビリア代表する画家となる。 ムリーリョ宗教画のみならず世俗的な絵をいくつも残しており、その観察眼鋭さ高く評価されている。1650年完成したをとる少年』はその好例であり、彼の代表作一つである。強烈な明暗対比の中で俯く少年リアルに描き出しており、高い筆力窺えるナポリリベラ作『エビ足の少年』といった社会下層部に位置する人々そのまま表現するピカレスク的(反騎士道、非貴族的な表現当時流行していた悪漢小説影響か)作品系譜しっかりと受け継いでいる。 彼の代名詞と言えるのは『無原罪の御宿り』という作品で、生涯通じいくつも描かれている。これは疫病など社会不安時に特別高まったマリア崇拝賜物で、人々溢れ信仰心注いだその時流に合わせてこれらの作品描いたムリーリョ圧倒的な地位確立するのだった同世代ライバルとしてフアン・デ・バルデス・レアルがおり、彼との切磋琢磨によって非常に磨き上げられていった。バルデス・レアルは残酷といえるほど生々しい表現追求したので、ムリーリョ異な傾向だったためか市場奪い合う関係ではなく、共にセビリア美術アカデミー創設する運動起こしていくのである1660年代にはムリーリョ名声ヨーロッパじゅうに広がっていた。通称暖かい様式と言われる彼の画業の最も華やかな時期であり、円熟した表現達成されている。彼の絵の購入者国際的な広がりをみせる。特にムリーリョの絵はイギリス人評価され多数作品渡り18世紀イギリス絵画多大な影響与えることになる。彼の絵はスペイン絵画集大成でもあり、次の時代ロココ絵画先駆とも言われている。彼の国際的な影響力故に最も有名なスペイン人画家であり、ベラスケス作品公になるまで名実ともに最大巨匠として美術史君臨することとなった1682年没した

※この「バルトロメ・エステバン・ムリーリョ」の解説は、「スペイン黄金時代美術」の解説の一部です。
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