フアン・デ・バルデス・レアル
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フアン・デ・バルデス・レアル Juan de Valdés Leal |
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19世紀の画家、Manuel Cabral Aguado-Bejaranoによる肖像画
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誕生日 | 1622年5月4日 |
出生地 | スペイン、セビリア |
死没年 | 1690年10月15日 |
死没地 | スペイン、セビリア |
フアン・デ・バルデス・レアル(Juan de Valdés Leal、1622年5月4日 – 1690年10月15日)はスペインの画家、版画家である。
略歴
セビリアで生まれた。父親はルシタニア人(ポルトガル人)のFernando de Nisaで母親はセビリアの女性、Antonia de Valdés Lealで、フアン・デ・バルデス・レアルは母親の姓を名乗った。セビリアでフアン・デル・カスティーリョ(Juan del Castillo: 1584-1640)やフランシスコ・エレーラ (父)(Francisco de Herrera el Viejo: 1576-1656)に美術を学んだとされる[1]。
1647年に画家のアントニオ・パロミーノ(Antonio Palomino: 1655–1726)の娘で、画家でもあったとされるイザベラ[2]と結婚し、夫妻はコルドバに移った。アントニオ・デル・カスティーリョ・イ・サアベドラ(Antonio del Castillo y Saavedra:1616-1668) の弟子として働くが1652年にコルドバにペストが蔓延したためセビリアに戻った。1654年から再び、コルドバで働き、1856年にセビリアに戻った[3]。
1660年にバルトロメ・エステバン・ムリーリョとフランシスコ・エレーラ (子)(Francisco de Herrera el Mozo:1622-1685) とともにセビリアに美術学校を設立し、1663年から4年間校長を務めたが、教師たちとうまくいかなかったとされる。
セビリアの建物(Hospital de la Caridad)の壁画、「栄光の終焉(Finis gloriae mundi)」や「束の間の命(In Ictu Oculi)」などを描いたことでも知られる。
息子のルーカス・デ・バルデス(Lucas de Valdés Carasquilla: 1661–1724)や娘のルイーザ・デ・モラレス(Luisa de Morales: 1654-1685)らも画家、版画家になった。
作品
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『イサクの燔祭』(1657/1659)
脚注
- ^ Juan de Valdés Leal (spanisch), Biografías y Vidas.
- ^ 妻の姓は Martínez de Moralesとするほか de Morales Carrasquillaとされる場合がある。
- ^ Juan de Valdés Leal (spanisch).
参考文献
- Bryan, Michael (1889). Walter Armstrong and Robert Edmund Graves. ed. Dictionary of Painters and Engravers, Biographical and Critical (Volume II L-Z). York St. #4, Covent Garden, London; Original from Fogg Library, Digitized May 18, 2007: George Bell and Sons. p. 604
- “Juan de Valdés Leal”. The J. Paul Getty Museum. 2012年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月22日閲覧。
フアン・デ・バルデス・レアル
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「スペイン黄金時代美術」の記事における「フアン・デ・バルデス・レアル」の解説
ムリーリョが17世紀後半のセビリア絵画の光とするなら、フアン・デ・バルデス・レアルはその影にあたる。セビリア生まれで1622年に洗礼を受けたことが分かっているが、その足取りは不明なところが多い。セビリアの自然主義を習得し明確な線描が特徴。1653年から手掛けたカルモーナの修道院装飾で名を上げた。以降、彼の表現は動きに満ちた激しいものへと変わっていき、筆致も荒々しくなっていった。強烈で劇的な表現を目指したため、同時代のムリーリョとは親交があったとはいえ正反対の美意識を持っていた。 1664年にマドリードへ旅行しておりフランシスコ・リーシら当時宮廷で活躍していた画家たちの作品から学び、その表現が深まっていく中で、明るい色調の作品も描くようになった。代表的な作品は「死の寓意」の連作であり、確かな描写力と陰気で激しい迫力を備えている。ヴァニタスの発露からしてバロック絵画の典型と言えよう。大きな成功を勝ち取りながら1690年に没した。これをもって17世紀セビリア絵画の終焉とされる。
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