フランシスコ・エレーラ_(父)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フランシスコ・エレーラ_(父)の意味・解説 

フランシスコ・エレーラ (父)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 14:52 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
フランシスコ・エレーラ(父)
Francisco de Herrera el Viejo
エレーラ作の殉教者聖San Cosme、自画像とする研究者もいる。
生誕1576年
スペイン、セビリア
死没1656年
スペイン、マドリード

フランシスコ・エレーラ(Francisco de Herrera el Viejo、1576年1656年)はスペインの画家である。セビリアを拠点に活動し、教会や修道院の装飾画を描いた。画家となった同名の息子、フランシスコ・エレーラ (子)(Francisco de Herrera el Mozo: 1627-1685)と区別するために「el Viejo(the Elder)」を付けて呼ばれる。

略歴

セビリアでミニアチュール画家の息子に生まれた。兄弟に画家のフアン・エレーラがいる。イタリアのマニエリスムの影響を受けた画家、フランシスコ・パチェーコ(1564-1644)の弟子であったとされているが、すぐにパチェーコのスタイルを離れて独自のスタイルで活動するようになった。1617年にはアンダルシアウエルバの大聖堂の仕事を依頼されている。当時のセビリアはマドリードよりも人口が多く、スペインの美術の中心になっていて、多くの工房でセルビア近傍の教会、修道院だけでなく、アルゼンチンやメキシコ、ペルーなどの教会に送られる祭壇画などが制作していた。エレーラの工房も、その重要な一つであった。1620年代にはフランシスコ・デ・スルバランと協力してトレドの神学校(Collegio di San Buonaventura)の仕事もした。

セビリアでのペストの大流行のために、1650年にマドリードに移り、マドリードで1656年に亡くなった。

1610年頃、有名な画家になるディエゴ・ベラスケスの最初の教師となったとされるが、エレーラの妥協を許さない厳しい性格に我慢できず、数か月でベラスケスは、フランシスコ・パチェーコのもとに移ったとされている。

作品

参考文献

  • William B. Jordan: Juan van der Hamen y León & The Court of Madrid. Yale University Press, New Haven 2005. ISBN 0-300-11318-8. S. 51.
  • Wood, James, ed. (1907). "Herrera, Francisco". The Nuttall Encyclopædia. London and New York: Frederick Warne.

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  フランシスコ・エレーラ_(父)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランシスコ・エレーラ_(父)」の関連用語

フランシスコ・エレーラ_(父)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランシスコ・エレーラ_(父)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランシスコ・エレーラ (父) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS