バクティ・ヨーガ
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「バガヴァッド・ギーター」の記事における「バクティ・ヨーガ」の解説
詳細は「ヨーガ」を参照 『バガヴァッド・ギーター』の第7章の冒頭で、絶え間ない、愛情のこもった、神の記憶からなる礼拝の一様式であるバクティについて説明される。信仰(シュラッダー(英語版))とチョイスした最愛の神(イシュタデーヴァター(英語版))への全面的な恭順がバクティの重要な一面であると考えられている。神学者キャサリン・コーンニール(Catherine Cornille)は、『バガヴァッド・ギーター』は「知識による解脱(ギャーナ)、行為による解脱(カルマ)、神への愛による解脱(バクティ)といった違った修行法の概観を提供し、そして最も手軽かつ崇高な解脱への道として後者のバクティ・ヨーガに力点を置いている」と記している。『バガヴァッド・ギーター』学者のサンパットクマラン(M. R. Sampatkumaran)はラーマーヌジャの『バガヴァッド・ギーター』に寄せた注釈書の要約にて「聖典に記されている知識それだけでは最終的な開放までは導かれないというところに要点がある。帰依、瞑想、崇拝が不可欠なのだ」と記している。ラーマクリシュナは、ギーターを数回繰り返して言うことでギーターの本質的なメッセージが見えてくると語る。「『ギーター、ギーター、ギーター』するとすぐに『ターギー、ターギー、ターギー』と聞こえてくるだろう。『ターギー』は『神のために全てを放棄した人』という意味になる」。以下の句にてクリシュナはバクティの重要性を明瞭に語っている。 すべてのヨーギンのうちでも、私に心を向け、信仰を抱き、私を親愛する者は、「最高に専心した者」であると、私は考える。 —『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳、(第6章47節) 一方、すべての行為を私のうちに放擲し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を瞑想し、念想する人々、 それら私に心を注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。アルジュナよ。 私にのみ意(こころ)を置け。私に知性を集中せよ。その後、あなたはまさに私の中に住むであろう。疑問の余地はない。 —『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳、(第12章6節-8節) ラダクリシュナン(Radhakrishnan)は11章55節には「バクティの真髄」と「ギーターの全ての教えの要旨」があると記している。 私のための行為をし、私に専念し、私を親愛し、執着を離れ、すべてのものに対して敵意ない人は、まさに私に至る。アルジュナよ。 —『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳、(第11章55節)
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バクティ・ヨーガ(信愛の道)
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「ヴィヴェーカーナンダ」の記事における「バクティ・ヨーガ(信愛の道)」の解説
バクティ・ヨーガは、神に夢中になることによって小さな「我」を滅し、神と合一することを目指す。これはラーマクリシュナが好んだ道でもある。バクティにも段階があという。象徴や師の助けのもとに魂の浄化が目指されるが、浄化の中で最高のものは放棄であり、放棄は最高の愛から生まれるとする。ヴィヴェーカーナンダは愛の段階を以下のように分けている。 平凡な愛(シャーンタ) 召し使いの主人への愛(ダーシャ) 友情(ダキア) 親の子供に対する愛情(ワーツサリア) 恋人の愛(マドゥラ) 友人同士は平等な愛で結ばれる。親は利害を離れて子供のためを思う。恋人は相手のためなら全てを投げ打つ。これは「我」の消えていく段階である。バクティは神への愛であり、神以外のあらゆるもの(我を含む)ではなく、神のみを愛することを理想とする。 神のみを愛せよということは、一切が神の顕れであるとする立場からは、全てを愛せよということになる。ヴィヴェーカーナンダは愛は神であり、宇宙の原動力だとも述べた。宇宙全体は愛の顕れであり、愛するものと愛されるものという区分は究極的には消滅し、全てが一体となった愛のみが残るという。
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