ハーグ大会とニューヨーク移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:34 UTC 版)
「第一インターナショナル」の記事における「ハーグ大会とニューヨーク移転」の解説
バクーニンは自由な政治組織による緩い連合を提案し、マルクスはその意図を疑い権威と規律を主張したが、この両雄の組織論はIWA大会ハーグ大会(英語版)で討議されることとなった。 1872年9月2日、「IWAにとって生死の問題と化した」ハーグ大会が開催された。さっそく大会では中央評議会に対する信任をめぐって対立し、40名のマルクス派代議員とその他24名の反対派に分裂した。イギリス代表はバクーニンの思想に反対していたが、マルクスの理論や中央統制とも相容れなかったため、中央評議会に対する信任に反対票を投じた。 続いて、政治権力の問題についてはマルクス派29票対バクーニン派5票、棄権9票で、政治権力の破壊を主張するバクーニン派に対して政治権力の奪取を提唱するマルクス派の勝利に終わった。かくして、第7条付則として『規約』に「政党結成」と「政治権力奪取」が明記され、平和的な手段もありうるとして議会進出に意欲を示す文言が盛り込まれた。さらに、これに終わらずマルクスは『インターナショナルのいわゆる分裂』という報告書において中央評議会に反対して無政府主義を掲げたバクーニンとその一派を除名するよう大会に対して勧告した。マルクスの動議を受けて、バクーニン、ジェーム・ギヨーム(英語版)、シュウィッツギューベル(英語版)、ブーケ、マロン、マルシャンらがIWAから追放された。9月6日に中央評議会をロンドンからニューヨークに移転するという決議を採択した。同決議はIWAの運命を未来に切り開くことが期待されたが、皮肉にもIWAを衰弱させるものとなった。 ハーグ大会終了後、アムステルダムで公開集会が開催された。マルクスは人々を前に演説をおこない、「労働者階級は、政治の分野でも社会の分野でも、滅びつつある旧社会を攻撃する必要がある、と宣言した」と表明している。また、続けてこうも語った。 「労働者は、新しい労働の組織を打ち立てるために、やがては政治権力を握らなければならない。労働者は、古い制度を支える古い政治を覆さなければならない。(ただし)それぞれの国の制度や習慣や伝統に特別な考慮をはらわなければならない。また、われわれはアメリカやイギリスのように、労働者が平和的手段でその目的を達成できると思われる国があることを、否定しない。……。が、たとえそうだとしても、たいていのヨーロッパ大陸諸国では、実力が革命の梃子とならねばならなぬだろうということを、認識すべきである。()内筆者補足。」 この演説は階級闘争の戦術面での相違や社会主義運動の多様性を示唆するものであった。各国市民の政治的自由度によって「改革」と「革命」の適宜性が左右され、労働者の階級闘争の方向性も、労働者党の戦術や政治的な役割も定まっていくということを指摘した。
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