ハーグ派の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 19:36 UTC 版)
1860年代後半、こうした画家たちがハーグに集まり始めた。1869年、メスダグはブリュッセルでの見習い生活を終え、ハーグに移った。ヤコブ・マリスは、1870年の普仏戦争開戦に伴い、パリからハーグに帰国した。同年、ヨゼフ・イスラエルス、そしてアントン・モーヴもハーグに住み始めた。ウィレム・マリス、ヨハネス・ボスボーム、ヤン・ヘンドリック・ヴァイセンブルフはもとからここに住んでいたメンバーである。彼らは固い友情で結びつき、一人が展覧会に招待されると、友人の作品も展示されるように働きかけるなど、協力し合った。 「ハーグ派」という名前を付けたのは、批評家ヤコブ・ファン・サンテン・コルフである。彼は、ハーグ派の手法を「事物を見、描く新しい方法」であり、「雰囲気を伝えることを目指し、明暗(トーン)が色彩に対し優位を占めている」、「いわゆる悪天候効果と灰色の雰囲気を専ら好んでいる」と説明している。ハーグ派の画家たちは、眼で見たものそのままを忠実に描写するよりも、雰囲気やその瞬間の印象を伝えることに関心を持った。多くを地味な色彩で描き、特に灰色を好んだことから、「灰色派」と呼ばれることもある。 ハーグ派の画家の多くは、ボスボーム、ルーロフス、ヴァイセンブルフが1847年に設立した絵画協会プルクリ・スタジオに所属して議論を交わした。このスタジオ設立に至ったのは、ハーグでの研鑽の機会が少ないことに若手画家たちが不満を募らせていたためである。ハーグ派の画家たちが理事を務め、プルクリ・スタジオは長い間ハーグ派の拠点としての役割を果たした。 時がたつにつれてハーグ派の画家たちも変化していった。ヤコブ・マリスはパレットに鮮やかな色彩を取り入れるようになった。ヨゼフ・イスラエルスも、くすんだ色遣いから完全に卒業してしまった。ワイセンブルッホは後年の作品では細部をぼやけさせ、浜辺などの風景を抽象的ともいえる色遣いで描くようになった。ウィレム・マリスは水面や牛の群れを日光が照らしだす草地の風景などを描き出す、光の画家となった。マティス・マリスは花嫁や子供たちの絵を描き続けたが、それは徐々に霞がかった夢心地のようなものになり、最後には現実から完全に遊離していった。
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