ハドソン設立
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「ハドソン・モーター・カー・カンパニー」の記事における「ハドソン設立」の解説
ハドソン・モーター・カー・カンパニーはデトロイトの事業家8人が1909年2月2日に設立した。設立を主導したのはランサム・E・オールズと一緒に働いた経験をもつロイ・D・チェイピン(シニア)であった(ロイ・チェイピン・シニアの子、ロイ・ジュニアは、ハドソン=ナッシュの後継企業であるアメリカン・モーターズで1960年代に社長を務めた)。 社名およびブランドの「ハドソン」はミシガン州デトロイトでハドソンデパートを創業した企業家ジョゼフ・ロウシアン・ハドソン(en)にちなんだ名称である。ジョゼフ・ハドソンはこの事業に資金提供するとともに名称使用を許可した。 ハドソン・モーター・カー・カンパニーは、その当初、1900年代後期としては比較的低価格な1000USドル以下で買える自動車の生産を目論んだ。デトロイトの小さな工場で乗用車が完成したのは1909年7月3日であった。真新しい「ハドソン・トゥエンティ」は自動車市場での人気を得て初年度に4000台以上を販売し、当時の初年度販売台数を記録した。 ハドソン社は自動車業界における数々の先駆的業績を残している。デュアルブレーキ、ダッシュボード上の油圧警告灯やバッテリー警告灯の採用、初のバランスド・クランクシャフトなどがある。このクランクシャフトを使用したハドソン直列6気筒エンジンを載せた1916年式スーパーシックスは高回転が維持でき、より低速なエンジン搭載車よりも、サイズの割りに滑らかに力を出すことができた。1957年までのハドソン車は、その多くが直列6気筒エンジンを搭載していた。デュアルブレーキでは第二系統が機械式駐車ブレーキだった。ブレーキペダルが第一系統の通常稼動範囲を超えた場合に、機械式緊急ブレーキとして後輪ブレーキを動作させた。ハドソン車のトランスミッションは、湿式のコルク・クラッチ機構で、動作がなめらかで耐久性にも優れていた。 1929年にはハドソンとエセックスあわせて年間30万台(含ベルギー、イギリス)を生産し最盛期を迎えた。この年ハドソンはフォードとシボレーに次いで、米国第三の乗用車メーカーとなった。 ハドソン車は、日本では大倉財閥総帥の大倉喜七郎が設立した輸入車ディーラーの日本自動車が代理店となって1910年代から第二次世界大戦直前までに多数を輸入・販売し、性能・品質の良好さも伴って、日本の輸入車市場でのシェアを得た。フォード、シボレーといったタクシー需要主力の大衆車クラスよりも上位にある中級量産車であり、高級ハイヤーやオーナーカーとしての需要があった。自動車製造に参入を目論んだ重工業メーカーがデッドコピー試作の原型とした例(量産化は実現せず)や、トラック主流の自動車メーカーであったヂーゼル自動車工業(後のいすゞ自動車)が乗用車試作の参考とした例など、戦前日本の自動車業界におけるベンチマークの一つにもなっていたことが伺われる。
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