ノストラダムスの配偶者と子供たち
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アンリエット・ダンコス(Henriette d'Encausse) ノストラダムスの最初の妻(生年未詳-1530年代?)。アジャンでの結婚の数年後に死別したとされる。従来、名前が明らかになっていなかったが1990年代に結婚契約書が発見されたことで特定された。 ノストラダムスとの間に男児と女児を一人ずつもうけたとされるが、いずれもアンリエットと共に死去したとされる。 アンヌ・ポンサルド(Anne Ponsarde) ノストラダムスの二番目の妻(生年未詳 - 1582年)。ノストラダムスと再婚した時点(1547年)で30歳くらいだったと推測する研究者もいるが、正確な生年は特定されていない。 マドレーヌ・ド・ノートルダム(Madeleine de Nostredame) ノストラダムスの長女(1551年頃 - 1623年4月7日)。生年は弟セザールの著書から間接的に推測されているもの。 オペード(Opède)とローリ(Lauris)の男爵クロード・ド・ペリュシス(Claude de Pérussis)と結婚し、当家の後継ぎクロードを生んだ。1623年にローリで没した。 セザール・ド・ノートルダム ノストラダムスの第二子で長男(1553年12月18日 - 1630年頃)。『予言集』の序文(いわゆる「セザールへの手紙」)は、初版刊行時点で生後17ヶ月程度だったセザールに捧げられている。 サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)の名士として市の要職を務めた。また、詩人として多くの詩作品を発表した一方、年代記作家として『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年)を著した。 シャルル・ド・ノートルダム(Charles de Nostredame) ノストラダムスの次男(1556年 - 1629年12月頃)。1588年2月17日にルイーズ・ベック(Louise Becq)と結婚し、アラン(Alleins, 現アルル郡内)に移住した。ほぼ2年後にあたる1590年2月1日に娘アンヌが洗礼を受けた記録がある。 詩人として活動し、ピエール=ジョゼフ・ド・エーツによれば、当時は高く評価されていたという。ただし、単著は伝わっていない。没年は兄セザールの私信での言及から明らかになっている。 アンドレ・ド・ノートルダム(André de Nostredame) ノストラダムスの三男(1557年11月3日 - 1601年12月2日。生没年月日は不確かな要素を含む)。 プロヴァンス総督アンリ・ダングレームの従者として仕えていたが、決闘で相手を殺めたことから投獄された。出所後の1587年12月14日にサロンのフランシスコ会修道院に入り、名をセラファン・ノストラダムス(Séraphin Nostradamus)と改めて一生を修道士生活に捧げた。ブリニョール(Brignoles)で没したとされる。 アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame) ノストラダムスの次女(1559年12月15日 - 1597年以前)。ルロワらの研究では1558年頃の生まれとされていたが、兄セザールの自筆らしき手稿によって正確な生年月日が特定された。 トゥーロンの有力者ピエール・ド・スヴァと結婚し、息子メルシオールを生んだが、1597年付けの兄セザールの遺言書原稿では、既に故人として扱われている。 ディアーヌ・ド・ノートルダム(Diane de Nostredame) ノストラダムスの三女(1561年 - 1630年以降)。1561年9月8日に洗礼を受けた。 生涯独身だった。兄セザールの書き物などによって没年が推定できる他の兄弟たちとちがい、それらの書付で存命中とされていることから、ディアーヌの正確な没年は分かっていない。
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