デザギュリエ
デザギュリエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:04 UTC 版)
ホークスビーが1713年に病気で亡くなると、ニュートンが次に実験演示者として期待をかけたのはジョン・テオフィルス・デザギュリエ(1682-1744)だった。デザギュリエは1713年にロンドンに移り住んでウェストミンスターのチャネルロー教会の牧師となった。自宅で科学を教える講座を開きすぐに評判になった。デザギュリエは1713年冬にニュートンが提案した熱に関する実験を追試して、学会で見事に演示した。それが評価されて1714年初めに学会の実験主任となった。デザギュリエはその主任を死ぬまで務めた。1715年にはニュートンが発見した「白色光はたくさんの色の集まりである」ということを示す実験を改良して学会で見せた。ニュートンはその実験によって『光学』のフランス語版の図を書きなおした。学会から払われる給与はしばしば遅れたり減額されたりしたが、実験器具を自宅に持ち帰って自分の講座を充実させて、自宅で開いた講座はますます人気が高まり、講座収入は実験主任の年俸の6~15倍を超えた。 デザギュリエは学会の会報に論文を52通以上書いた。1717年に80ページの講座の案内書『機械学的自然学講義』を出版した。その講義の題目は 力学(8講義)-物質、力のつりあい、運動の第一法則、運動の第二法則、球の影と新月と半月・潮汐、斜面・振り子・磁石、衝突 静水力学(7講義)-水・流体、比重、ポンプ、蒸気、潜水鍾、空気の弾性、空気銃 光学(6講義)-光の本性・光の物質論、光の媒体・レンズ、暗箱としての目、レンズの種類と簡単に焦点を求める方(紙焦がし)、顕微鏡・望遠鏡・めがね、その他の実験 である。 1734年にデザギュリエは実験を詳しくまとめた『実験哲学講座』を出版した。この中で「講座を20年間ほどで121回開いた」と記している。聴講者のほとんどは数学のできない人で、女性も少なくなかった。デザギュリエは「数学の天分のない人に科学を教えるのはとても大変だが、喜びもまた大きい」「科学の発見者は自分の発見が役に立つことをみて喜びを感じるが、科学が人間に役に立つものだと聴講者に感じてもらうのは、発見以上の喜びがある」と述べている。当時科学の講座を自宅で開いている人はイングランドで11、12名いて、そのうちデザギュリエの講座に参加した弟子は8人いると誇らしく語っている。 デザギュリエは1734年の広告文で天文学講座をプラネタリウムを用いて行うと述べている。デザギュリエは1728年ごろまでは歯車仕掛けで天体模型を動かす機会をオーラリーと呼んでいたが、これをプラネタリウムと改めたのである。天体模型を歯車で動かす機械はホイヘンスが1682年に作らせていたが、デザギュリエは当時の天体観測データで、できるだけ精密に天体を動かせるように機械を工夫した。 デザギュリエは1736年から電気の実験も精力的に行い、吊り上げた人物が帯電して電気を保持し、それを他の物体に伝えることを演示した。デザギュリエは糸の切れ端を検電器にして、物質が電気を帯びたり、通したりする度合いや、空気中で失う電荷、湿気の効果を計っている。デザギュリエは1736年にコーヒー・ハウスの建物に居を移すとそこでも演示実験を続け、1744年に死ぬまで講座を続けた。
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