テイ橋の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 04:16 UTC 版)
詳細は「Tay Bridge disaster」を参照 1879年12月28日の夜、イギリス北部を強い嵐が襲った。19時頃の気圧は982 hPa、風速は毎秒30~35 mと推定されている。ただ残った鉄骨の上向きに引きちぎれた状況から、竜巻が起こっていた可能性も推定されている。嵐の中で橋の中央の「ハイ・ガーダー」(High Girders) と呼ばれる区間が走行中の列車を巻き込んで崩壊した。75名が死亡したとされ、この中にはトーマス・バウチの義理の息子も含まれていた。60人の名前の分かった犠牲者のうち、46人のみ遺体が発見され、このうち2人の遺体は1880年2月になってから見つかった。行方不明者も多く、正確な犠牲者数は乗車券の販売数を厳密に集計することで算出された。この中には遠くロンドンのキングス・クロス駅からのものもあった。ダンディーにおける19世紀の一般的な都市伝説の中には、カール・マルクスはこの列車に乗るはずであったが、病気で旅行に出られなかったために実際には乗車しなかった、というものがある[要出典]。 捜査官はすぐに事故の原因となった設計・材質・工法上の欠陥を調査し、バウチの設計は風による荷重に対して余裕がなかったとした。彼は、200 フィート以下のガーダーでは風に対する考慮は不要と報告されていたが、より長い 245 フィート(約 75 メートル)のガーダーへ設計変更した際にこれを見直さなかった。また橋の中央部では、下の航路を通る船のマストを支障しないよう高いスルートラスの内側にレールが敷かれており、これは低いデッキトラスの上を通行する前後の区間に比べて重心が高く、風に対して脆弱であった。また、以前の半分作りかけの橋から鉄をリサイクルする現地の工場を、バウチも契約者も定期的に訪問していなかったことが明らかになった。円筒形の鋳鉄の梁が橋でもっとも長い13のスパンを支えており、それぞれ 245 フィートの長さがあったが、これはとても低い質のものであった。多くは水平に鋳造されており、結果としてとても薄いものになっただけではなく、不完全な鋳造を不適切に品質管理検査の目から隠していた証拠も見つかった。特に、鍛造の支柱を取り付ける突起物は桁材と一体的に鋳造せず後から焼き付けられていたが、焼き付けた証拠は残らなかった。また通常の突起物はとても弱かった。デービッド・カーカルディ (David Kirkaldy) によりこれらは検査が行われ、60トンの荷重に耐えるはずのものがたったの20トンで破壊することが証明された。嵐の中でこれらの突起物が壊れて、橋の中央部全体の安定を損ねたものと考えられている。 なお、この初代の橋の橋脚の残骸は満潮時でもいまなお見ることができる。
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