タキシードの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 15:01 UTC 版)
19世紀後半、タキシードの原型となるスモーキングジャケットがイギリスで誕生する。この頃は晩餐の食事の席では燕尾服を身にまとい、その後の男性のみの喫煙を伴う談笑の席でこのスモーキングジャケットに着替えられた(くつろぐための格好として、またタバコの匂いの問題等が主な理由である。) 1870年代初頭、ドイツやフランスのカジノでショールカラー(へちま襟)の尾のない燕尾服を着ることが流行し、これらは、上記のスモーキング、喫煙服のデザインを取り入れたものだったため、同様にスモーキングと呼ばれた。 1876年、当時のイギリス皇太子エドワード7世がこのスモーキングのファッションを英国に取り入れ、ディナー・ジャケットを考案し、パーティーなどで着用するようになる。 1886年、ニューヨークのタキシード・パーク倶楽部の正装舞踏会で、全員が燕尾服を着ている中、グリスウォルド・ロリラードという人物が燕尾服に着替えるのを忘れ、真っ赤なスモーキングジャケットを着用したままパーティーに参加したことが米国における始まりであるといわれる(タキシード事件)。これは、彼がその年の夏に訪れたヨーロッパで見た流行のスタイルを取り入れて意図的にそのような格好で現れたのを、周りのアメリカ人たちが「着替え忘れた」と勘違いした、とする説もある。 1890年代には色とりどりのスモーキングジャケットと燕尾服のズボン、シャツ、小物を組み合わせたファッションが若者の間で流行する。この当時からアメリカではタキシードという呼び名が定着した。 1900年代には黒のジャケット、燕尾服用のズボン、ウィングカラーのシャツ、白ベスト、白蝶ネクタイというスタイルが礼装として米国市民権を獲得する。 1910年代には当時カジュアルシャツであったヒダ胸シャツと組み合わせた着こなしが大流行する。 1920年代には夜の正礼装である燕尾服に次ぐ礼服として世界中に認知される。黒蝶ネクタイと黒のカマーベスト、カマーバンドが用いられるようになり、ブラック・タイと呼ばれるようになる。 それまでショールカラーしかなかったジャケットに、燕尾服に似せたピークトラペル(剣襟)のジャケットが新たに加わる。また、ダブルのジャケットも登場する。 1930年代イギリスにおいて晩餐の席における服装としてこの服装が一般化する。また、このころより白タキシードや色柄もののカマーバンド、蝶ネクタイなどが販売され、用いられるようになる。1920年代に登場したダブルのジャケットが流行する。 1950年代にはピーコック革命の波に乗り、色柄物のタキシードやクロス・タイ、フリル、レース、色物のシャツなどが用いられるようになる。ピーコック革命の後、タキシードは再び黒一色に戻る。 1966年 イヴ・サン=ローランが女性のためにアレンジしたタキシードを発表する。男性だけのものと思われていた服を女性が着る先駆けとなる。 1968年開催の第40回アカデミー賞までは、アカデミー賞で司会やプレゼンターを務める出席者は燕尾服を着用していたのが、翌1969年に開催された第41回アカデミー賞からは、司会とプレゼンターもタキシード中心の正装へと変化した。 1970年前後、上下白のタキシードにフリルシャツと言う組み合わせが花婿の衣装として流行する。 1986年、タキシード100年、自由の女神100年、コカ・コーラ100年、オーストラリア建国100年などのイベントのさなか、タキシードに普通のネクタイを組み合わせた取材陣が数多く見られる。日本では光物のアクセサリーなどをつけたディスコスタイルのタキシードが着られる。 1989年にはカリフォルニア・ブラックタイ、テキサス・ブラックタイと呼ばれる着方が現れる。
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