ソンミ村事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 07:11 UTC 版)
「サミュエル・コスター」の記事における「ソンミ村事件」の解説
1968年3月16日、アーネスト・メディナ大尉とウィリアム・カリー中尉に率いられたアメリカル師団所属の中隊が南ベトナムのミライ集落にて民間人の虐殺を行なった。犠牲者数の公的な調査は行われなかったが、後の研究では350人から500名の女、子供、老人が手榴弾、小銃、機関銃、銃剣などで殺傷されたと推測されている。この中には住居ごと焼き殺されたものもいるという。死体は側溝に積み上げられていた。さらに集落においてベトコンの活動は確認されておらず、虐殺の最中にも米兵に対する銃撃は一度も行われなかった。この事件は本土のアメリカ人に対して大きなショックを与え、ベトナム戦争に対する介入そのものに不道徳な印象を強く付与する事となった。 コスター自身はミライ集落に直接侵入しておらず、事件当時は部隊の展開状況を確認する為にヘリコプターに搭乗し、集落の上空にいた。彼自身が後に語った所によれば、彼は民間人の死傷者がわずか20人程度だと信じていたのだという。ただしその一方で「野蛮な銃撃」に関する噂や、虐殺を止めようとしたヘリコプター操縦士と地上部隊が対峙したという噂を耳にしていたという。なお、このヘリコプター操縦士については後にヒュー・トンプソン(英語版)であった事が判明した。事件後、コスターは部下に対して事件に関する調査を命じたものの、まもなくして「報告書は作成したものの紛失した」と伝えられた。結局は師団本部への報告がなされることはなく、1963年にアメリカル師団の復員兵ロナルド・ライデンアワー(英語版)がペンタゴン、大統領、上院議員らに対して事件に関する秘密裏かつ高度な調査を求める手紙を送った事をきっかけに政府当局が事件の調査に乗り出す事になる。1969年11月、フリーランスの調査報道ジャーナリストであるシーモア・ハーシュが書いた暴露記事によって虐殺事件が公に知られることとなった。 1968年6月、コスターはベトナムを離れ、陸軍士官学校の校長に就任した。1970年3月、コスターと13名の将校は虐殺を隠蔽しようとした容疑で起訴された。まもなく陸軍が「コスターは意図的に責任を放棄したのではない」と判断した為に起訴は取り下げられている。コスターの軍法会議は1971年1月に終了したが、同年5月になってからスタンリー・リーザー陸軍長官により陸軍殊勲章(英語版)の剥奪と准将への降格が言い渡された。また、アメリカル師団でコスターの副官だったジョージ・H・ヤング准将(George H. Young , Jr.)の陸軍殊勲章も同時に剥奪されている。 コスターが陸軍士官学校長を辞する際、3,700人の士官候補生は盛大な拍手と行進で彼を送り出した。ある士官候補生によれば、当時士官学校内で蔓延していたいじめを根絶したのがコスターだったという。
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