ソロのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 20:46 UTC 版)
彼の最初のスケッチ・コメディー(コント)『C'est l'histoire d'un mec (ある野郎の物語)』はたちまち大成功となり、しかも揺るぎない成功を収めることになった。「彼は1970年代のバンリュー(郊外)の貧困層のイメージを作り上げた。お人好しだが頭が悪くてしどろもどろになって、仕方がないので人種主義者になって、広告やラジオ番組のクイズに簡単に影響されて・・・」というものだった。コリューシュは自称「不躾なやつ」だった 。そして「不躾だが、決して下品ではない」コメディアンであった。 1974年、興行師でプロデューサーのポール・ルデルマンからブリュイエール劇場での『テレーズは悲しい』の延長公演を持ちかけられたが、これは大失敗に終わった。1974年2月15日から3月2日まで、オランピア劇場で『さらばミュージックホールよ』を演じ、このときのサスペンダー付きズボンと黄色いTシャツの衣装は、彼のトレードマークとして広く知られることとなった。彼が演じたのは、きちんと自分を表現することができず、恨みがましく、不躾な「ボフ」であった(「ボフ」は風刺画家カビュが作り出した人物で「下品、無教養、偏狭なフランス人男性」を表わす)。同年3月には、彼のコントを吹き込んだ最初のレコード『アデュー(さらば)』で契約にこぎつけることができた。 ユーモリストとして初めてテレビに出演したのは1974年5月19日の大統領選の結果発表の日、ジャン=クロード・ブリアリが司会を務めるバラエティー番組だった。結果発表やコメントによって度々番組が中断されていた。敗れたフランソワ・ミッテランの演説の開始が遅れていた。コリューシュが1981年の大統領選出馬を表明するという挑発を含んだ『ある野郎の物語』が放映されたのは、偶然にも、ミッテランの敗北演説の直前だった。 1975年、フランスツアー中にギ・リュクスの『ル・シュミルブリック (Le Schmilblick)』のパロディー(パスティーシュ)としてのコントを放映して人気を博した。コントの中で演じたパピー・ムジョーという役は、のちにコリューシュの定番となる。 1976年にはエリゼ・モンマルトル劇場で、劇場カフェ「スプレンディド」の団員とともに『ジネット・ラカズ』を演じた。 1977年にはマルク・モネとコリューシュの共同監督で『fr:Vous n'aurez pas l'Alsace et la Lorraine アルザスとロレーヌはもうないだろう』を撮影し、主役のグロ・ピフ王を演じた。この映画はコリューシュにとって唯一の監督作となった。 この頃からパリ14区ガザン通りの一軒家に住むようになった。この時期にはまた、ルイ・ド・フュネスらと共演した『手羽先とモモ』(1976年、クロード・ジディ監督)など、多くの映画に出演している。
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