セントルイス・カージナルス時代(1965年 - 1971年)
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「スティーブ・カールトン」の記事における「セントルイス・カージナルス時代(1965年 - 1971年)」の解説
1963年10月8日にセントルイス・カージナルスと契約。1964年はA級とAA級合計で15勝6敗、防御率2.22の好成績を記録し、1965年4月12日のシカゴ・カブス戦でメジャーデビュー。 1966年は開幕をマイナーで迎えたが7月にメジャーに昇格し、8月5日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を完投で飾り、8月22日のヒューストン・アストロズ戦でメジャー初完封を記録するなど3勝を挙げる。 1967年は5月から先発ローテーションに定着。14勝9敗1セーブ、防御率2.98を記録し、チームのリーグ優勝に貢献。ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズでは第5戦に先発し、6回1失点(自責点0)と好投するが、打線の援護がなく敗戦投手。チームは4勝3敗でワールドチャンピオンとなった。1968年は自身初のオールスターゲームに選出される。13勝11敗、防御率2.99の成績で、チームはリーグ連覇。デトロイト・タイガースとのワールドシリーズでは2試合のリリーフ登板のみで、チームは3勝4敗で敗退した。オフの日米野球にカージナルスの一員として参加し、対戦した東京オリオンズのエース成田文男のスライダーに興味を持ち、これを習得する。1969年は9月15日のメッツ戦で当時のMLB記録となる19奪三振を記録したが、敗戦投手となった。17勝11敗、防御率2.17、210奪三振の好成績を記録。防御率は終盤まで1点台を維持していたが、最終登板で打ち込まれてリーグ2位だった。1970年は不調でリーグワーストの19敗を喫した。1971年はリーグ2位タイの20勝を記録。
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セントルイス・カージナルス時代
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「ケン・ボイヤー」の記事における「セントルイス・カージナルス時代」の解説
前年オフに正三塁手をトレードで放出していたチームは、1955年の開幕からボイヤーを三塁手として起用する。この年は打率.264、18本塁打、22盗塁とルーキーとしてはまずまずの成績を残した。1956年には打撃好調で初のオールスターに選出される。最終的にはスタン・ミュージアルの27本に次ぐチーム2位の26本塁打を記録した。1957年は新人に三塁のポジションを明け渡し、外野手にコンバートされたが、翌1958年にはカート・フラッドがセンターに定着したため三塁に復帰し、初のゴールドグラブ賞を獲得する。打撃面でもチームトップの23本塁打、90打点を記録するほか、同年オフには日米野球来日メンバーに参加している。1959年~1961年は3年連続で打率、本塁打、打点の3部門でチームトップを記録するなど主軸選手として活躍した。1959年~1964年はオールスターに連続選出、ゴールドグラブ賞も4回受賞した。また1959年には自己最長となる29試合連続安打を、1961年と1964年にはサイクルヒットを記録している。また、1961年から1964年にかけて4年連続で24本塁打を記録。4年連続で20本以上の本塁打を記録し、しかも同じ本数という選手はこの時のボイヤーが第一号で、のちに1984年から1987年にかけてフレッド・リンが23本塁打を記録した2例しかない。
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