セルビデオの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 12:49 UTC 版)
「アダルトビデオの歴史」の記事における「セルビデオの時代」の解説
詳細は「セルビデオ」を参照 1989年、前述の女子高生コンクリート詰め殺人事件をきっかけにビデ倫は一部表現に制約を科す。更に宮崎勤事件なども重なり、AVを含めたセックス・メディアに逆風が吹いた。1992年頃には大手製作会社の倒産が相次ぎ、人気女優の裏流出ビデオが大量に出ることとなった。これは1997年まで続く。 その中で1990年代前半、セルビデオという新しい流通形態が一般化した。それまでのビデオ作品はあくまでレンタルが主流で、顧客への小売販売という実験的な試みはあったものの、一般化はしていなかった。1993年にレンタルビデオとは違う、そしてビデ倫に加入しないセルビデオ(小売りビデオ)販売店である本格的なセルビデオショップとして日本ビデオ販売の「ビデオ安売王」チェーンは、会長佐藤太治の積極的な広報活動の甲斐もあり、1995年までにフランチャイズ1000店舗と拡大展開した。価格帯はおおよそ2,000 - 3,000円、粗利は50%程度だった。 セルビデオはビデ倫を通さず別の自主倫理審査を行い、ビデ倫審査作品に比べ、陰毛が見える、モザイクが薄いなどのアドバンテージがあった。前述の通り、モザイクが薄ければ疑似本番では誤魔化し難い。このため疑似本番しかできないビデ倫レンタルさがりの女優は起用できなかった。そもそも、モザイクの薄さはユーザーの満足や売り上げに直結するとされる。なお2000年以降には「激薄ビデオ」と呼ばれる、モザイクの一辺が1mm以下のものまで登場した。ただし、このような商品がまともなショップに並ぶことは稀であった。 当初安売王と製作者は仕入先固定契約により自由な流通が阻害されていたが、1996年、安売王が海賊版ビデオを販売してしまったことなどにより訴訟に発展。1996年2月の安売王代表・佐藤の辞任を契機にビデオ安売王は崩壊するが、フランチャイズ店舗は1000店という規模が残ったこと、そのビデオ安売王が築いた市場に後発の業者が殺到したことにより、セルビデオブームが到来した。ここで業績を伸ばしたのがソフト・オン・デマンド、桃太郎映像出版などのメーカーである。 安売王傘下のソフト・オン・デマンドは、セルビデオメーカーとして初めて独自の流通ルートを開拓し、経営規模の大幅な拡大に成功している。また、ソフト・オン・デマンドは統括プロデューサー高橋がなりのマスコミへの積極的なアプローチによりアンダーグラウンドイメージの強いセルビデオメーカーのイメージ払拭に成功した。 セルビデオは大流行を見せ、90年代後半には販売店は3,000店とも5,000店とも言われる状況となった。AV制作側もセルビデオを歓迎した。村西とおるによれば、レンタルは企画開始から集金まで1年程度を要したものが、ショップ買い取り方式のセルビデオであればすぐにでも売り上げが入ってくるのである。 また、日本のAV製作会社が外国向けに販売したものが、日本に逆輸入されて裏ビデオとして販売される場合があった。激薄ビデオも海外に輸出されていた。日本の警察は2002年頃から薄消しビデオの摘発に躍起になったことが、販売会社が販売先を海外に移したことが原因ともみられる。2004年頃には、日本人AV女優の出演しているAVが海外サイトで販売されていることは当然といった状態となった。 高橋は前述のようにビデ倫一極の業界体制にも一石を投じ、新たな審査団体メディア倫理協会を設立。後の多数の新審査機関設立の潮流を作り上げた。2007年8月、セルビデオに対抗してモザイクなどの規制を緩めた日本ビデオ倫理協会が警視庁から強制捜査の上、わいせつ図画頒布幇助の疑いで逮捕者が出ることになる。これによりビデ倫は事実上の崩壊を迎える。
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