ストレイチー書簡
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「シェイクスピア別人説」の記事における「ストレイチー書簡」の解説
「ストレイチー書簡」は、『テンペスト』にインスピレーションを与えた可能性が高い資料であると従来の学者の多くが考えてきた。 この文書は、1609年にアメリカのヴァージニア植民地へ向かうイギリス船Sea Venture号がバミューダ諸島沖で嵐に巻き込まれて難破した際の様子を記述したもので、帰還した乗客の1人であった作家ウィリアム・ストレイチー(William Strachey)がヴァージニア会社と関わりのある「高貴な女性」に宛てて綴った書簡であり、1610年に書かれたと伝えられている。同年中には、この書簡(公刊されたのは1625年だが、写しが出回っていたと推測されている)やシルヴェスター・ジョーダン(Sylvester Jordain)の『バミューダ島発見記』("A Discovery of the Bermudas"、通称「バミューダ・パンフレット」)が広く読まれていたので、嵐の描写の類似などからシェイクスピアがこれらを参照していたというのが定説になっている。そのため、この書簡は20世紀初頭以降の研究者から重要視されてきたのである。しかし1970年代には、この書簡の重要性は正統派の学者からさえ疑問視されるようになった。文学者のケネス・ミューアが「私が思うに、バミューダ・パンフレットがこの作品に及ぼした影響の大きさは誇張されているのではないか」と疑義を表明したのである。ミューアは、ストレイチーの報告書よりも前に書かれたセント・ポールによるマルタでの難破報告書と『テンペスト』との間で共通する13の主題や言い回しを引用している。 ストレイチー書簡が『テンペスト』の資料であったとすると、この戯曲はオックスフォード伯の死後に書かれたものであることになるため、この書簡の存在はオックスフォード派に対する強い反証となっていた。しかし、21世紀に入ってからの研究者の間ではシェイクスピアがこの書簡に基づいて『テンペスト』を執筆したという説に疑義が呈されるようになった。ニュー・ケンブリッジ版全集の編集者デヴィッド・リンドレイによれば、ストレイチー書簡は『テンペスト』の資料であった可能性はあるが、オウィディウスやモンテーニュのように、それがなければ書けなかったという程の資料ではない。オックスフォード派研究者はこれに賛同し、加えてその他の先行する資料の重要性を指摘している。特にリチャード・エデンの"The Decades of the New Worlde Or West India"(1555年)やエラスムスの"Naufragium"("The Shipwreck"、1523年)は、言葉やイメージに関してストレイチー書簡よりも多くの類似点が見られるという新しい研究成果を発表している。 オックスフォード派のさらなる研究成果としては、リチャード・ハクルート(Richard Hakluyt)の著書『イギリス国民の航行・航海・交通および発見』("The Principal Navigations, Voyages, Traffiques and Discoveries of the English Nation"、1598年 - 1600年)に、やはりバミューダ沖で1593年に起きたエドワード・ボナヴェンチャー号(Edward Bonaventure)の難破についてのヘンリー・メイ船長による目撃証言が掲載されているという事実の発見などがあり、バミューダ沖での海難事故は他にも起きていたこと、シェイクスピアが参照したのがストレイチー書簡ではなくこちらの事件報告であった可能性があることなどが指摘されている。この船に関するさらに注目すべき事実として、探検家マーティン・フロビシャーが1582年にレスター伯へ宛てた手紙の存在がある。この手紙でフロビシャーはオックスフォード伯が自分に投資してこの船を買い与えてくれたこと、すなわちオックスフォード伯がこの船の所有者であった時期があることを明らかにしているのである。 一方ベーコン派にとっては、1609年の時点ではベーコンがヴァージニア植民地の統治議会にいたという事実から、このストレイチー書簡は重要なものとなっている。ベーコン派の中には、この書簡は当初機密扱いとなっており、議会のメンバー以外には秘せられていたはずだと考える者がいる。その根拠は、植民地総督のトマス・ゲイツ(Thomas Gates)が1609年にヴァージニアへ向けて出発する際に政府が与えた指示である。「貴殿は以下の事柄について細心の注意を払うべし。英国に対しいかなる交渉がもたらされたか。いかなる文書が書かれたか。いかなる現地産品が梱包・封印されて本国政府の首班宛てに送られたか」。植民地政府が手紙の読み終えられた後もこの守秘義務を通す方針であったか否かに関しては議論の余地がある。つまり、機密文書に触れることのできる立場にいたベーコンなればこそストレイチー書簡の影響下に『テンペスト』を執筆できたのだとする仮説と、シェイクスピアの知人の多くがヴァージニア会社の役員ないしは役員と近しい関係にあったためシェイクスピアもその内容を知ることができたのだとする仮説が成り立つのである。
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