スタジオの一時閉鎖から再開まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 10:12 UTC 版)
「ウォルター・ランツ」の記事における「スタジオの一時閉鎖から再開まで」の解説
1947年、ランツはユニバーサルの新副社長マティ・フォックスと7年間の契約を再交渉した。しかし、この契約はユニバーサルの所有者の交代によって名称がユニバーサル・インターナショナルに変わり、社規の多くが変わったときに中断した。新たな経営陣はランツのキャラクターたちに使用許可証を得ることと権利を売り払うことを要求した。ランツはこの要求を拒絶し、1947年の終わりユニバーサルとの契約を解除した。その後、1948年と1949年は合わせて12のカートゥーンをユナイテッド・アーティスツに自主的に提供した。 ユナイテッド・アーティスツ時代のカートゥーンはディズニー出身の監督であるディック・ランディーやエド・ラブ(英語版)の影響でアニメーションは滑らかなものとなった。またこの時代を最後に人気が低下していたアンディ・パンダの作品は作られなくなった。 1948年、ランツはメル・ブランクのウッディー・ウッドペッカーの笑い声を使った、「The Woody Woodpecker Song」が発表され、アカデミー賞にノミネートされ人気を博した。ブランクはランツに50万ドルの支払を要求し、さらにランツが許可なく自分の笑い声を映画の一部に使用していると主張した。裁判の結果、ブランクは自身の声や貢献を著作権で保護することに失敗したとして、ランツの勝訴となった。ランツは勝訴したが、彼はブランクが訴訟を提起したとき裁判所外で和解金を支払うことになった。 ユナイテッド・アーティスツとの契約の元で、ランツはカートゥーンの制作費を支払うために興行収入のいくらかを受け取るということにしていた。残念ながら、ユナイテッド・アーティスツは興行収入の内のわずかな部分のみランツのものに帰すると考えていた。その理由はユナイテッド・アーティスツがその当時、1920年頃の業界での地位を再構築するよう試みに苦労していたからであった。その結果、ランツは25万ドルを越える借金をバンク・オブ・アメリカから借りていた(なお、ランツはIrving Trust(投資銀行)を1942年に去っていた)。バンク・オブ・アメリカの頭取であるジョー・ローゼンバーグのすすめに従って、ランツは借金が返済できるまでスタジオを閉鎖することに決めた。1948年にスタジオは一時閉鎖した。ランツはユニバーサルの社長のネイト・ブランバーグに自らのスタジオが昔公開した映画の再公開を要請し、認められた。 中断期間中に、ランツはコカ・コーラのcmを制作したり、アメリカでは見つからなかった政府の報奨金や低い人件費に目をつけて、ヨーロッパに行って彼の映画のアニメーションができるスタジオを探したりした。しかし、ヨーロッパ諸国の戦争後の経済状況やハリウッドのそれより強い労働組合が存在したため、ランツは映画をアメリカで作り続けることにした。 また、ランツはブランクの後継となるウッディーの声の出演者を探した。1950年、ランツは匿名のオーディションを行った。ランツの妻であるグレースはこれに申し込んだが、ランツはウッディーが男性のキャラクターであることを理由に申し出を断った。しかしグレースはやる気をなくさず、匿名のオーディションテープを作成しスタジオに提出した。ランツは自分が聞いた声の背後に何があるか分からなかったため、グレースをウッディーの声に採用することにした。グレースは1972年にシリーズが終了するまでウッディーの声を演じたほか、その他のキャラクターの声も担当した。最初、グレースは男性のキャラクターであるウッディーが女性によって演じられていることを知った子供たちが失望することを恐れて、ノンクレジットで出演していた。しかし、彼女はすぐにウッディーの声を演じていることが知られることを楽しみに思うようになり、1958年のMisguided Missileからはクレジット有りで出演した。彼女の声は1940年代の変わった声より可愛く親しみやすいものになり、ランツたちはこの声に合わせるようにウッディーの人間性を再構築していった。
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