スタジオの再開からテレビの時代へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 10:12 UTC 版)
「ウォルター・ランツ」の記事における「スタジオの再開からテレビの時代へ」の解説
1950年、ランツはスタジオの営業を再開させた。最初の成果は、ジョージ・パル(ランツの友人でもあった)制作の月世界征服(1950年6月27日公開(アメリカ))にウッディーをわずかに登場させることであった。ランツは翌年に7つのカートゥーンを公開することを再交渉し、全ての公開映画はウッディー・ウッドペッカー作品であると規定された。ランツとスタッフたちはすぐに新たな作品の制作に取りかかった。最初の2作品(Puny Express、 Sleep Happy)はベン・ハーダウェイ(英語版)やヘック・アレン(英語版)がユナイテッド・アーティスト時代にストーリーを作っていたものだった。1951年、それは公開され、観衆の人気を博した。その人気ぶりはユニバーサルが6作品を翌年に制作することをスタジオに求めるほどだった。全体的に、1951年はスタジオの新しい時代の始まりだった。しかし、ランツは作品を安く・速く作ろうとしたため、贅沢で芸術的な背景が使われることはもはや無かったし、デザインも1940年代の作品と区別されるものであった。 1950年中期に、映画界は資金に苦しむようになり、カートゥーンにわずかなお金しかかけなくなった。1956年の短編映画業界には、7人のアニメーションプロデューサーがいたが、1950年代末には3人になっていた。ランツとユニバーサルは、上昇している新しい作品を制作することにかかる費用を助成する唯一の方法は、自分の作品をテレビで放送することであることを知っていた。ユニバーサルの短編映画部のノーマン・グラックは、レオ・バーネット・エージェンシー(英語版)に昔のランツの作品をテレビで流してもらうことにした。バーネットはケロッグのシリアルの口座を扱っており、ランツはすぐにケロッグ社の人々と会って契約に署名した。テレビによって強制されることで劇場のカートゥーンは絶滅するだろうと考えたので、ランツは最初は乗り気ではなかったが、中間地点でのみで働くことを渋々認めた。 The Woody Woodpecker ShowはABCで1957年10月3日に始まり、1998年12月まで続いた。番組は週一回、木曜日の午後に放送され、30分間であった(このためミッキーマウス・クラブは30分縮小した)。ランツは既存のカートゥーンを新たな実写映像と統合させ、ランツと視聴者両方が満足するような更新された見た目となった。ここでは、実写映像としてA Moment with Walter Lantzが制作され、脚本家がどのようにストーリーを思いつくか、どのようにアニメーションは作られるかをランツ自身が出演して説明した。実写部分はディズニーショーで似たような実写映像を制作したジャック・ハンナが担当した。
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