スタジオの終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 10:12 UTC 版)
「ウォルター・ランツ」の記事における「スタジオの終焉」の解説
ランツは1960年代にはベトナム戦争の従軍兵士を励ましたり療養している兵士を訪問したりした。 1969年までに、他のスタジオはアニメーションの制作をやめ、残っているものはウォルター・ランツ・プロダクションズとデパティエ=フレレング・エンタープライズ(英語版)(ユナイテッド・アーティスツにカートゥーンを提供。ピンク・パンサーが著名)のみであった。 1967年から1972年まで、ユニバーサルはランツのカートゥーンをパッケージで映画館に販売し、映画館は特に順序もなくそれを公演した。1972年、ランツは自身のスタジオを閉鎖することにした。インフレーションが彼の利益を圧迫し、カートゥーンを制作することが経済的に不可能になったからだと彼は説明している。ユニバーサルはその後も昔のカートゥーンを公開し続けた。 Bye Bye Blackboardというウッディーの作品が、スタジオの最後の作品となった。最後の年となった1972年にはチリー・ウィリー(1作品)、ベアリー・ファミリー(4作品)、ウッディー・ウッドペッカー(8作品)の13作品が公開された。自身の作品が利益を示すのに10年かかると知ったランツはスタジオの閉鎖を決定し、発表時にスタッフと別れの昼食会を開いたという。
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