ジョン・パルマーとして
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「ディック・ターピン」の記事における「ジョン・パルマーとして」の解説
1737年6月頃、ターピンはジョン・パルマー(またはパーメン、英: John Palmer/Parmen)と名を偽ってイースト・ライディング・オブ・ヨークシャーのブラフ(英語版)の船着き場から船に乗った。イースト・ライディング・オブ・ヨークシャーとリンカンシャーという2つの歴史的カウンティ(英語版)に挟まれたハンバー川を渡りながら、馬を売る商人のふりをして時折、地元の紳士とともに狩りをしていた。1738年10月2日、道端で闘鶏の相手の鶏を撃ち殺し、ジョン・ロビンソンによって押さえつけられている間に、ターピンは彼も撃つと脅した。そこでイースト・ライディングの治安判事3人(ジョージ・クロール(George Crowle、キングストン・アポン・ハル選出の国会議員)、ヒュー・ベセル、マーマデューク・コンスタブルがブラフに派遣され、この事件の供述録取書を受け取った。彼らはターピンに謹慎処分(Binding over)を負わせようとしたが、ターピンは要求された保証金の支払いを拒否し、ベヴァリー(英語版)の更生施設(House of correction)に入れられた。ターピンはベヴァリーまで教会区の治安官ケアリー・ジルに連行された。どういうわけか彼は逃亡を図らなかった。バーロー(1973)では、ターピンはこの時、人生の失敗を感じて絶望していたのではないかと推測されている。 この事件について詳細に記録を残した、イースト・ライディングの治安判事裁判所書記官(Clerk of the Peace)ロバート・アプレトンは、3人の治安官は「パルマー」が犯罪で生活していたのではないかと疑い、どうやって金を稼いでいたのか尋ねたことを記録している。ターピンは自分のことを、借金に苦しむ肉屋でリンカンシャー・ロング・サットン(英語版)の家から借金を踏み倒して逃げてきたのだと説明した。そこでロング・サットンの治安官(デラメアという名だとされる)に連絡を取ったところ、ジョン・パルマーはそこで9か月間住んでいたが、羊を盗んだ容疑をかけられ、地元の勾留所から逃亡したことが確認された。デラメアはパルマーが追い剥ぎではないかとも疑い、それを証明する供述録取書をいくつか揃えると、3人の治安判事にターピンを勾留したままにするようを進言した。治安判事たちは、パルマーを更生施設に入れておくには事件が重大すぎると判断し、パルマーの保証人にヨークの巡回裁判(英語版)に来てもらうよう要求した。ターピンはこれを拒否し、10月16日にヨーク城(英語版)に拘束された。 馬による追い剥ぎは、1545年に死刑に値する罪となった。17世紀から18世紀にかけて、財産の権利を侵す犯罪は最も厳しく罰せられており、200の資本法令のほとんどは財産侵害に関するものだった。暴力を伴う窃盗は「死刑の次に重い犯罪(比較的少数の犯罪)で、最も厳しい方法で罰せられる」(英: "the sort of offence, second only to premeditated murder (a relatively uncommon crime), most likely to be prosecuted and punished to [the law's] utmost rigour")とされた。ターピンはパルマーとして名を偽っている間にも、何度か馬を盗んだ。1737年7月、ターピンはリンカンシャー・ピンチベック(英語版)で馬を盗み、ヘンプステッド(英語版)の自分の父親を訪ねるのに使った。ターピンがブラフに戻る時(道中、3頭の馬を盗んだ)、彼は父親に去勢馬を残していった。ジョン・ターピンの息子の身元はよく知られており、その馬の持ち主もすぐに明らかになった。1738年9月12日、ターピンの父ジョン・ターピンはエセックスの牢に馬の窃盗の罪で投獄されたが、脱獄を防ぐことに協力したことで刑は1739年5月5日に免除された。その約1か月後、「パルマー」はヨーク城に移され、ターピンに盗まれた3頭の馬の持ち主トーマス・クリーシーは馬たちを取り戻すことができた。ターピンは、この馬盗みが原因となって裁判にかけられることになった。 ターピンは牢獄の部屋でヘンプステッドに住む義理の兄ポンパー・リヴァーナル(英: Pompr Rivernall)に手紙を書いている。リヴァーナルはターピンの姉ドロシーの夫だった。手紙は地元の郵便局に保管されていたが、リヴァーナルはヨークの郵便局の切手が貼られているのを見て、「ヨークに知り合いはいない」と郵便料金の支払いを拒否した。リヴァーナルは郵便料金を支払いたくなかっただけという可能性もあるが、ターピンの事件に関わり合いたくなかったということも考えられている。そして手紙はサフロン・ウォールデン(英語版)の郵便局に送られ、ターピンに読み書きを教えたジェームズ・スミスが彼の筆跡だと鑑定して、治安判事のトーマス・スタビングに通報した。スタビングはその手紙の郵便料金を払い開封してから、ヨーク城に向かい、2月23日にパルマーはターピンであることが確認された。スミスは、トーマス・モリス殺害の後にニューカッスル公がかけた賞金の、200ポンド(2018年の31,406ポンドに相当)を受け取った。
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