ジョン・パルマーとしてとは? わかりやすく解説

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ジョン・パルマーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 03:01 UTC 版)

ディック・ターピン」の記事における「ジョン・パルマーとして」の解説

1737年6月頃、ターピンはジョン・パルマー(またはパーメン、英: John Palmer/Parmen)と名を偽ってイースト・ライディング・オブ・ヨークシャーブラフ英語版)の船着き場から船に乗ったイースト・ライディング・オブ・ヨークシャーリンカンシャーという2つ歴史的カウンティ英語版)に挟まれハンバー川渡りながら、馬を売る商人のふりをして時折地元紳士とともに狩りをしていた。1738年10月2日道端闘鶏相手撃ち殺しジョン・ロビンソンによって押さえつけられている間に、ターピンは彼も撃つと脅した。そこでイースト・ライディングの治安判事3人(ジョージ・クロール(George Crowle、キングストン・アポン・ハル選出国会議員)、ヒュー・ベセル、マーマデューク・コンスタブルがブラフ派遣され、この事件供述録取書受け取った。彼らはターピン謹慎処分Binding over)を負わせようとしたが、ターピン要求され保証金支払い拒否しベヴァリー英語版)の更生施設House of correction)に入れられた。ターピンベヴァリーまで教会区治安官ケアリー・ジルに連行された。どういうわけか彼は逃亡を図らなかった。バーロー1973)では、ターピンはこの時、人生失敗感じて絶望していたのではないか推測されている。 この事件について詳細に記録残した、イースト・ライディングの治安判事裁判所書記官Clerk of the Peace)ロバート・アプレトンは、3人の治安官は「パルマー」が犯罪生活していたのではないか疑いどうやって金を稼いでいたのか尋ねたことを記録している。ターピン自分のことを、借金苦し肉屋でリンカンシャー・ロング・サットン(英語版)の家から借金踏み倒して逃げてきたのだと説明した。そこでロング・サットンの治安官デラメアという名だとされる)に連絡取ったところ、ジョン・パルマーはそこで9か月住んでいたが、羊を盗んだ容疑かけられ地元勾留所から逃亡したことが確認された。デラメアパルマー追い剥ぎではないかとも疑い、それを証明する供述録取書いくつか揃えると、3人の治安判事ターピン勾留したままにするようを進言した。治安判事たちは、パルマー更生施設入れておくには事件が重大すぎると判断しパルマー保証人ヨーク巡回裁判英語版)に来てもらうよう要求したターピンはこれを拒否し10月16日ヨーク城(英語版)に拘束された。 馬による追い剥ぎは、1545年死刑値するとなった17世紀から18世紀にかけて、財産権利侵す犯罪は最も厳しく罰せられており、200資本法令のほとんどは財産侵害に関するのだった暴力を伴う窃盗は「死刑次に重い犯罪比較少数犯罪)で、最も厳し方法で罰せられる」(英: "the sort of offence, second only to premeditated murder (a relatively uncommon crime), most likely to be prosecuted and punished to [the law's] utmost rigour")とされた。ターピンパルマーとして名を偽っている間にも、何度か馬を盗んだ1737年7月ターピンはリンカンシャー・ピンチベック(英語版)で馬を盗み、ヘンプステッド(英語版)の自分父親訪ねるのに使ったターピンブラフに戻る時(道中、3頭の馬を盗んだ)、彼は父親去勢馬残していった。ジョン・ターピンの息子身元はよく知られており、その馬の持ち主もすぐに明らかになった。1738年9月12日ターピンの父ジョン・ターピンはエセックスの牢に馬の窃盗の罪で投獄されたが、脱獄を防ぐことに協力したことで刑は1739年5月5日免除された。その約1か月後、「パルマー」はヨーク城に移されターピン盗まれた3頭の馬の持ち主トーマス・クリーシーは馬たちを取り戻すことができた。ターピンは、この馬盗み原因となって裁判かけられることになったターピン牢獄部屋でヘンプステッドに住む義理の兄ポンパー・リヴァーナル(英: Pompr Rivernall)に手紙書いている。リヴァーナルはターピンの姉ドロシーの夫だった。手紙地元郵便局保管されていたが、リヴァーナルはヨーク郵便局切手が貼られているのを見て、「ヨーク知り合いはいない」と郵便料金支払い拒否した。リヴァーナルは郵便料金支払いたくなかっただけという可能性もあるが、ターピン事件関わり合いたくなかったということ考えられている。そして手紙はサフロン・ウォールデン(英語版)の郵便局送られターピン読み書き教えたジェームズ・スミス彼の筆跡だと鑑定して治安判事のトーマス・スタビングに通報したスタビングその手紙の郵便料金払い開封してから、ヨーク城に向かい2月23日パルマーターピンであることが確認された。スミスは、トーマス・モリス殺害の後にニューカッスル公がかけた賞金の、200ポンド2018年31,406ポンドに相当)を受け取った

※この「ジョン・パルマーとして」の解説は、「ディック・ターピン」の解説の一部です。
「ジョン・パルマーとして」を含む「ディック・ターピン」の記事については、「ディック・ターピン」の概要を参照ください。

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