ジョン・パース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 07:03 UTC 版)
「スーシティ (アイオワ州)」の記事における「ジョン・パース」の解説
1900年、スーシティやこの国の他の地域は元スーシティの土地投機家、開発者および後の悪名高い策略家ジョン・パースによって実行された詐欺の犠牲者となった。ジョン・パースは華々しい変化に富んだ人物であり、南北戦争で負傷し勲章を授与された北軍退役軍人でもあり、19世紀に起こったスーシティ勃興の主要な促進者だった。かなり最近まで、スーシティの歴史家達と市民指導者達は、スーシティの特に最も繁華な通りがその名前を冠しているノースサイドの発展に貢献したと思われるその時代に高い評価をしていた。ごく最近の調査によって結局パースは犯罪を見つからずにやってのける大変ずる賢い悪党だということを示した。パースは他の多くの実業家と同様、1893年の金融恐慌で大変な損失を出していた。スーシティの指導的実業家の大半が負債を償還するために真面目に働いて再建を進めている間に、パースはアメリカ合衆国西海岸への移転を実行するために必要な資金を大衆から騙し取る計画を始めていた。1900年、パースはノースサイドにあった邸宅(後にスーシティ博物館になった)を処分するために全国的宝くじ始めた。約4万枚の籤が1枚1ドルで売られた。抽選は1900年クリスマスイブにユニオンの乗客発着場で行われた。最初に当選者はアイオワ州ビントンの宝石商だと宣言された。しかし数日後、当選籤はニューヨークの百万長者ウィリアム・バーバーが持っていることが明らかになった(パースはバーバーに対して大きな負債を負っていた)。パース邸 の概要については、所有権譲渡証書が抽選の9日「前」、バーバーが当選籤を持っていると公に知られた19日前にバーバーに渡っていた。バーバーは直ぐに、コンビネーション・ブリッジを運営している会社が発行する債券と引き換えに、ウィリアム・ゴードンにその邸宅を売却した。パースは確かに派手な存在だったが、西部に向かって旅立つ前に新聞にスーシティに対する感傷的な告別の辞を載せ、おそらくはその地域社会における正直なイメージを確固たるものにするよう仕組んだ。パースは持っている金を掻き集めて、スーシティから永久に消えた。かくしてスーシティはその最も繁華な通りにペテン師に因んだ名前を付け、その邸宅だった所は市立博物館として機能するという怪しげな特徴を持つところとなった。
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