サテライトアートの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 10:17 UTC 版)
「ナム・ジュン・パイク」の記事における「サテライトアートの時代」の解説
1984年、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』にちなみ、ニューヨーク・パリ間衛星生中継番組『グッドモーニング・ミスター・オーウェル(英語版)』(ニューヨーク・WNET/パリ・FR3)を企画制作。アメリカ・フランス・西ドイツ・韓国で放送される。日本で初の作品集『ナム・ジュン・パイク タイム・コラージュ』(ISSI PRESS) が出版される。出版記念会で高橋悠治、坂本龍一、細野晴臣とパフォーマンスを行う。東京都美術館では6月14日 - 7月29日の会期で大規模な個展『ナムジュン・パイク展:ヴィデオ・アートを中心に』を開催。同時期に西武美術館で個展を開いていたヨーゼフ・ボイスとともにパフォーマンスを行う。 1986年、東京・ギャルリー・ワタリで個展『パイク/ワタリ二重奏』を開催。福井・曹洞宗大本山永平寺に参禅し、『メイド・イン・永平寺』『永平寺讃歌』を制作。ニューヨーク・東京・ソウルを衛星中継した番組『バイ・バイ・キップリング』(ニューヨーク・WNET/日本・JCTV)を企画制作。日本ではテレビ朝日で録画放送された。 1987年、ベルリンの芸術アカデミー会員に選ばれる。『ドクメンタ8』に参加。 1988年、ソウルオリンピックのために依頼されたビデオ・インスタレーション作品『多いほどよい(朝鮮語版)』を制作(現在は、韓国・果川市の韓国国立現代美術館に展示)。『ラップ・アラウンド・ザ・ワールド』を制作。 1990年、フィラデルフィアの街頭に『ビデオ・アーバー』が設置される。 1992年、ソウルの美術館と画廊で、大規模な『ナム・ジュン・パイク回顧展』が開催される。 1993年、ヴェネツィア・ビエンナーレに、ハンス・ハーケらとともにドイツ館代表として参加。ドイツ館は「金獅子賞」を獲得した。東京・ワタリウム美術館で個展『パイク地球論』を開催。 1994年、ニューヨークのホイットニー美術館、ザ・ハーワード・ワイズ・ギャラリーで『TV・アズ・アクリエイティブ・メディウム展』、フロリダのフォートローダーデール美術館(英語版)で『エレクトロニック・スーパー・ハイウェイ展』を開催。 1995年、光州ビエンナーレ(英語版)(光州)でシンシア・グッドマンと共同で『インフォアート'95展』を企画。 1996年、コペンハーゲン国立美術館で『ビデオ・スカルプチャー、エレクトロニック・アンダーカレンツ展』を開催。イースターの日に脳梗塞で倒れ、妻の献身的な介護、リハビリ活動を経て以後車椅子生活となる。このリハビリの際の様子や、韓国への帰省を久保田成子が記録したビデオ作品『Trip to Korea』『Sexual Healing』がある。 2000年、米韓で大規模な回顧展。 2004年、ビデオテープ作品『グローバル・グルーブ2004』『ワン・キャンドル』を制作。 2006年1月29日午前6時ごろ、アメリカ合衆国フロリダ州マイアミの別荘で死去。妻と看護師が見守るなか、静かに息を引き取ったという。73歳であった。葬儀では、パイクが初期のパフォーマンスでジョン・ケージのネクタイをハサミで切ったことにちなみ、参列者たちはこぞって自分のネクタイを切り、パイクの棺に納めた。韓国では、パイクが朝鮮戦争を逃れて出国したことや、米国に帰化していることで複雑な感情を抱く人が少なくなかったが、白南準美術館が着工する直前に伝えられた死去の報には、多くの国民が悲嘆にくれたという。美術館は後に2008年にソウル南郊の龍仁市にオープンした。 2007年、韓国放送公社 (KBS) は開局80年を記念し、7月27日 - 12月30日、汝矣島にある同局内の特別展示ホールで、パイクの作品をあつめた展覧会「Nam June Paik - Rhapsody in Video」を開催した。
※この「サテライトアートの時代」の解説は、「ナム・ジュン・パイク」の解説の一部です。
「サテライトアートの時代」を含む「ナム・ジュン・パイク」の記事については、「ナム・ジュン・パイク」の概要を参照ください。
- サテライトアートの時代のページへのリンク