コリン・ウォレスの主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 18:27 UTC 版)
「ダブリン・モナハン爆弾事件」の記事における「コリン・ウォレスの主張」の解説
爆弾事件当時、コリン・ウォレスはイギリス陸軍北アイルランド司令部にいたイギリス情報部の将校だった。1975年に辞任して以来、ロイヤリストとの国家共謀を含む治安部隊の不祥事を暴露してきた。バロン審問にも証拠を提出した。 1975年8月、北アイルランドの英国陸軍情報サービスの責任者であるトニー・ストウトンに宛てた手紙の中で、ウォレスは以下のように書いている。 昨年5月に起きたダブリンでの爆破事件は、権力の共有化を実現するためにアイルランド政府が果たした役割に対する報復であったことを示す良い証拠がある。クレイグの関係者の一人(北アイルランドでMI6のトップを務めるクレイグ・スメリー)によると、関係者の中には、ヤングズ、ジャクソンズ、マルホランド、ハンナ、カー、マコーネルなどがいて、当時は「特別支部」や「軍事情報部」と密接に連携していたという。クレイグの仲間は、宗派的な暗殺は、停戦交渉をしようとするリーズの試みを破壊するために設計されたと考えている。ターゲットは諜報部/特殊部隊によって、双方のために特定された。また、何人かの上級王立アルスター警察隊(RUC)役員がこのグループに関与していると信じている。要するに、ロイヤリストの準軍人と諜報部/特別支部の一員が、双方の準軍人に殺し合いをさせることで消耗戦を戦い、同時にサニングデールのような将来の政策を阻止しようと、ある種の疑似ギャングを結成したように見えるのだ。 1975年9月のさらなる手紙の中で、ウォレスは、MI5がUVFの政治への動きに反対する強硬派のグループを支援していると書いていた。 昨年後半に発生した暴力の多くは、新情報部の一部の人々が意図的に紛争をあおることによって引き起こされたと信じている。我々はこの1年間、離反したUVFやUFFを標的にすることを許されたことはなかった。しかし、彼らはIRAよりも多くの人を殺している。 バロン審問への証拠では、ウォレスは治安部隊はUVFに徹底的に潜入しており、大規模な爆撃作戦が計画されていたことを知っており、誰が関与していたかを知っていただろうと主張した。その上で、爆破調査チームが爆破事件のごく短期間で解散したことを指摘している。バロンはウォレスの1975年8月の手紙は「北アイルランドの治安部隊がガルダの捜査チームと共有されていない情報を持っていたことを示す強力な証拠」であると指摘した。 フレッド・ホルロイドやジョン・ウィアーと同様に、コリン・ウォレスを貶めようとする試みは失敗に終わった。バロンは ウォレスが仕えていたのと同じ警備会社に狙われていたと指摘した。1975年、記者のロバート・フィスクに機密文書を渡そうとしたため、表向きは辞任に追い込まれた。ウォレスは、「時計じかけのオレンジ」計画の続行を拒否したことと、治安部隊が児童性暴力団に関与していたことが発覚したことが解雇の本当の理由だと主張している。解任後、ウォレスはこれらの不祥事を暴露しようとしただけでなく、ロイヤリストとの国家間の結託も暴露しようとした。1980年に数々の主張をした直後、逮捕され、過失致死罪で有罪判決を受けた。1985年に仮釈放され、無実を宣言。ウォレスが濡れ衣を着せられたと様々な人が主張している。その後、有罪判決を覆され、公職からの不当解雇で3万ポンドの賠償金を支払われた。英国陸軍の諜報機関での役割は、遅ればせながらも1990年に公式に認められた。
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