グユク・ハンの勅書
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「プラノ・カルピニ」の記事における「グユク・ハンの勅書」の解説
カルピニがこの時ローマ教皇庁にもたらしたグユク・ハンの発令によるペルシア語の勅書がバチカン図書館に現在も保存されている。この書簡は「紙」に書かれている。 ローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたこの書簡は、モンゴル帝国で作成された経緯・来歴がはっきりしている命令文書としては最古の部類に入り、またこの書簡に捺印されているウイグル文字によるモンゴル語の印璽銘文もモンゴル語の資料としても絶対年代が判明している実質最古のものである。(国書はアラビア文字で書かれ、「永遠なる天の力により、(中略)ハンの勅」という冒頭の3行のみテュルク語であり、それ以外は全てペルシア語文から成っている。文章末尾に「(ヒジュラ暦)644年ジュマーダー=ル=アーヒラ月の最後の日(1246年11月10日)」と発行した年月日を附している) 『モンゴル人の歴史』によれば、カルピニは教皇への手紙とその翻訳の作成を要請し、帝国の文書行政の総責任者である大ビチクチ(書記官)であったチンカイらがカルピニたちと「タルタル語の手紙」とそのラテン語による翻訳を一語一語検討しながら作成した事が述べられている。当時のモンゴル帝国による文書行政はウイグル語文によって行われていたようなので、ここでいう「タルタル語」とはウイグル語だったろうと現在では考えられている。カルピニはこの書簡と翻訳の2通を持ち帰ったと述べるが、現存するペルシア語の書簡はカルピニが触れている「イスラム教徒の文字」で翻訳されたものか、「タルタル語の書簡」そのものなのか議論が分かれている。ウイグル文書簡、ペルシア語翻訳書簡、ラテン語翻訳の3通があったのではとも論じられたが結論は出ていない。 いずれにしろこのペルシア語文書簡はモンゴル皇帝の印璽が捺された真正のモンゴル皇帝の勅書であることに変わり無く、モンゴル帝国史における第一級の歴史資料である。 なお、カルピニに同行したポーランド出身で同じフランシスコ会所属の修道士ベネディクトによる口述書も残っており、そこにこの勅書のラテン語訳文も載せられている。勅書の内容とベネディクトの口述書にある翻訳文の内容は良く対応している。 この勅書はカルピニがもたらしたローマ教皇の親書に応える内容のものであった。しかし、その主旨は、バトゥ率いるモンゴル軍のハンガリー王国やポーランド王国などの遠征に対するローマ教皇側の非難を拒絶しつつ、逆にローマ教皇側が真のキリスト教徒であると自尊して他のキリスト教諸派を侮蔑している態度を批判し、さらに、チンギス・カン以来、モンゴル帝国が天なる神から「日の昇るところから没する地まで」全世界に対する支配権を預託されていることを強く宣言したものであった。また、ローマ教皇およびヨーロッパ諸国の君主たちにモンゴル帝国への即時の帰順と降服勧告を命じ、そして、ローマ教皇自身がヨーロッパの君主たちを率いモンゴル宮廷に自ら参上して率先的にモンゴル帝国に帰順するよう強く勧告している。これを拒んだ場合は再度武力による討伐もあり得ることも付言していた。 勅書では、明らかにローマ教皇を下に見て書かれてあり、ローマ教皇にこのような公文書が送られたのは初めてのことであった。そして、この勅書こそローマ教皇が初めて手にした“紙”とされている。ただし、遡ること1102年には既にシチリアに製紙工場が建てられているため、教皇庁にも紙が伝わっていた可能性はある。
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