ガス会社への関与
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岡本太右衛門ら岐阜電気経営陣は、電気事業のほかにも岐阜市・大垣町の双方における都市ガス事業にも関係した。 先に会社設立に至ったのは岐阜市の岐阜瓦斯(初代)で、1910年9月13日に資本金60万円で発足した。岐阜市におけるガス事業は、発起の段階では岐阜電気の岡本・箕浦宗吉らのグループと名古屋の奥田正香(名古屋瓦斯社長)らのグループによる競願となっていたが、県や市の調停によって出願の一本化がなされた。社長は奥田正香、常務は岐阜の三浦源助が務め、岡本も監査役に名を連ねる。岐阜瓦斯は半年後の1911年4月に開業し、1915年(大正4年)11月末時点では需要家数2884戸にガス灯用孔口9107個・熱用孔口3407個を取り付けていた。 一方の大垣町では、1912年1月13日、大垣瓦斯(現・大垣ガス)が資本金20万円で設立された。地元の戸田鋭之助のほか岐阜電気から岡本太右衛門や箕浦宗太郎・桑原善吉が発起人に加わっており、初代社長は箕浦宗太郎が務める。さらに岐阜電気自体が大垣瓦斯の筆頭株主であった。大垣瓦斯は同年5月に仮営業を開始し、7月正式に開業した。1915年11月末時点では需要家数854戸・灯用孔口数2243個・熱用孔口数693個を数える。 岐阜瓦斯・大垣瓦斯両社の供給成績に見えるように、当時の都市ガス用途はガス燃焼による照明、すなわちガス灯であった。両社が起業された明治末期の段階では、ガス灯は電灯に対し競争力を十分持った照明であった。当時普及していた炭素線電球は消費電力が大きく、ガス灯と比較すると同じ明るさをともすのに2倍の費用を要した。従って経済性に安全性が加味された場合にのみ電灯が優位に立つという状況であったためである。ところが電灯の改良が進んでタングステン電球が出現すると、電灯に対するガス灯の優位性は失われた。タングステン電球は炭素線電球に比べ長寿命・高効率であり、消費電力が約3分の1に低下したことで明るさ当たりの費用もガス灯より若干廉価となったためである。岐阜電気の場合、タングステン電球導入は前述のように1914年から本格化した。 タングステン電球の出現によってガス事業者は熱利用の需要開拓を図るようになったが、第一次世界大戦中の大戦景気による原料石炭価格高騰が追い打ちをかけ業界全体が経営難に陥った。名古屋瓦斯のようにコークス・タールなどの副産物製造が活況を呈する事業者もあったが、地盤の小さい地方の小規模事業者では廃業するものが相次いだ。岐阜瓦斯も廃業を選択した事業者であり、1918年(大正7年)解散に追い込まれた。岐阜のガス事業が再興されるのはその8年後、岡本太右衛門や東邦ガス(旧・名古屋瓦斯)の岡本桜によって設立された2代目の岐阜瓦斯が開業した1926年(大正15年)11月のことである。一方、岐阜電気傘下の大垣瓦斯は廃業せずに電気事業参入で経営難を打開する方針を立て、1917年(大正6年)6月に安八郡墨俣町の墨俣電灯から事業を買収した。ガス・電気兼営となった大垣瓦斯はその翌年に社名も大垣瓦斯電気と改めた。
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