ガス事業の出現
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電気事業の一方でガス事業については、1899年ごろから小曽根晨太郎ら長崎の有力実業家の間で起業への動きが始まった。電灯は当時半夜灯のみ(終夜灯となるのは1903年11月から)でなおかつ故障が多く、市内のうち大浦川より南(外国人居住者の多い南山手など)はまだ配電範囲外であったことからガス灯を供給すべく計画されたものである。長崎出身の実業家山内善三郎が参加すると起業計画は前進し、1902年12月28日、資本金10万円で「長崎瓦斯合資会社」が設立されるに至った。社長には山内が就いた。 事務所および石炭ガスを製造するガス工場の用地は、小曽根の提供により長崎港の埋立地である小曽根町とされた。開業は1903年10月1日で、横浜・東京・神戸に次いで日本では4番目、九州では第1号のガス事業である。1,000立方フィートにつき灯用2円、熱用1円80銭とガス料金は高価であったが、工場周辺には外国人居住者が多く台所の熱用としての需要が多数あり、商店街からも電灯がまだ暗く故障しがちな時代であったことから店頭の照明用として歓迎された。需要家は同年12月時点で415戸で、創業から10年を経ていた長崎電灯の需要家は同じ時期703戸であったから、事業規模は長崎電灯に比して遜色ないものであったといえる。開業翌年の1904年(明治37年)、日露戦争が勃発。これに伴い外国人居住者の引き揚げが相次いだことで、ガスの売り上げは減少傾向となった。その上小曽根ら関係者の死去が続いたため1906年(明治39年)8月29日をもって長崎瓦斯は解散、社長だった山内善三郎個人が事業を引き継いだ(山内商会瓦斯部)。 日露戦争の影響は電気事業にも及んだ。戦争により再び石炭価格が高騰したことで、長崎電灯は1905年(明治38年)下期に無配となり、1906年(明治39年)には再び赤字に転落した。そのため一部株主から経営陣に対する強い批判が起こり、1906年には役員から一時退いていた大株主の古賀祐一が改革派株主を代表して監査役に就任、会社設立以前から続く山口派・松田派の対立が再燃することになった。1907年(明治40年)より十八銀行副頭取で松田派の社長である氷見寛二(1906年1月社長復帰)の下で経営改革が始まるが、黒字化・復配したものの支出が嵩む状態が続いた。その要因の一つに考えられたのが低い発電効率によるコスト高である。当時の主力発電設備は1903年に増設された300キロワット発電機であったが、この設備は最新鋭の設備に比べて9倍近い石炭を消費していたという。コスト高解消を目指し設備更新を計画、1911年(明治44年)7月には資本金を20万円(1908年に減資していた)から100万円へと大幅に増資し、その資金で新発電所の建設に着手した。
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