カレー沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 11:02 UTC 版)
8月7日(旧暦7月28日)、無敵艦隊は密集態勢の半月陣形でカレー沖に投錨し、そこから遠くはないダンケルクにはパルマ公の陸軍(疫病により1万6,000人に減っていた)がフランドル諸港から集められた艀の船団を用意して、艦隊に合流すべく待機しているはずだった。連絡は予想していたよりもはるかに困難であり、ここに至ってメディナ=シドニア公は陸軍は未だに準備がまったくできていないと知らされ、投錨して艦隊を待機させざるをえなかった。 一方、ダンケルクはオランダ人反乱軍のユスティヌス・ファン・ナッサウ (en) 提督率いる30隻の快速船 (en) によって海上封鎖されていた。艦隊の備蓄は減っており、メディナ=シドニア公はパルマ公へ弾薬と食料の補給のために軽量の快速船(petaches)を送るよう要請したが、パルマ公はこの要請に応えることができなかった。パルマ公はこの作戦において消極的な態度が目立っており、当初からイングランド上陸は不可能だと考え、作戦を中止させるために意図的にサボタージュを行っていたとする見方もある。 ダンケルク近くは浅瀬が多いため先に進めず(これは遠征のおもな障害であるとすでに認識されていた)、夜が更けるとスペイン人たちは自らの脆弱さに気付かされる。メディナ=シドニア公は、スペイン艦隊が風下側に停泊していることから、火船攻撃を受ける危険があると考えた。そこで、小型船やボートを前列に並べて阻止線を築くとともに、各艦に錨を捨てての緊急出港に備えるよう命じた。 8月7日(旧暦7月28日)深夜、イングランド艦隊は150 - 200トン級軍艦に樹脂や硫黄、火薬そしてタールを満載した火船8隻を風下に位置し、密接して投錨している無敵艦隊へ向けて送り込んだ。スペイン人はこれらの異常に大きな火船はアントウェルペン包囲 (en) の際にオランダ人が使用し、破壊的な効果をもたらした大量の火薬を満載した特殊な火船「鉛の機械」(マクィナス・デ・ミナス) (en) であると信じて恐怖した。2隻は途中で捕らえられて曳航されたが、残りは艦隊に突っ込んだ。メディナ=シドニア公の旗艦とおもな軍艦は位置を保ったが、残りの船は錨を切って混乱しつつ分散してしまった。ナポリ船隊司令ウーゴ・デ・モンカーダの乗るガレアス船サンロレンソ(San Lorenzo)は混乱の中で事故を起こして行動不能に陥り、カレーに座礁してしまい、ハワードのアークロイヤル号 (en) がこれを攻撃して乗組員および漕ぎ手奴隷との死闘の後に捕獲され、その残骸は最終的にイングランドとフランスが入手した。 炎上したスペイン船はなかったが、半月陣形は崩され、そこへイングランド艦隊が戦闘を仕掛けるべく迫っていた。メディナ=シドニア公は号砲を鳴らさせてスペイン艦隊にカレーへの再集結を命じたが、多くの艦は錨をすべて失っており停止することができず、海岸線に沿って北東へ流されていくばかりだった。メディナ=シドニア公は、やむなく旗艦サン・マルチーニョ号(São Martinho)を発進させて部下の艦を追い、もっと先で艦隊を再編成することにした。
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