イングランド上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 02:36 UTC 版)
10月30日にウィレム3世はオランダにメアリーを残しオランダ軍2万を率いて出港したが、嵐のため翌10月31日に一旦引き返した。11月11日に再度出港、11月15日(11月5日)にイングランド西部のデヴォン海岸に上陸、11月17日(11月7日)に宣言文を配布して国民に広く主張を訴えた。これらの事実を知ったジェームズ2世は議会に譲歩を示したが、既に手遅れだった。 この頃、イングランド軍内部ではジェームズ2世に任命されたカトリックの士官に対する不服従が広がり、彼らはオランダ軍と戦おうとはしなかった。11月23日(11月13日)にジェームズ2世の命令を受けたイングランド軍がソールズベリーにやって来たが、指揮官のコーンベリー子爵エドワード・ハイド(メアリーの母方の従弟、後の第3代クラレンドン伯爵)が翌日の11月24日(11月14日)にオランダ軍に寝返った。これを受けてジェームズ2世は27日(11月17日)に自らロンドンから出陣して庶子のベリック公ジェームズ・フィッツジェームズをポーツマスに派遣した。しかし、軍議で方針がまとまらず12月3日(11月23日)にロンドンに引き上げると、ジェームズ2世が創設した常備軍の司令官ジョン・チャーチルが脱走、戦わずしてオランダ軍に投降した。 オランダ軍がロンドンに迫ると、12月4日(11月24日)にジェームズ2世の次女でやはりプロテスタントとして育てられていたアンの夫であるデンマーク王子ジョージがオーモンド公ジェームズ・バトラーと共に脱走、12月6日(11月26日)にはアンがチャーチルの妻で女官サラ・ジェニングスやコンプトンの手引きでロンドンから姉の夫であるウィレム3世のもとに逃亡し、夕方にロンドンへ戻ったジェームズ2世は衝撃を受けて孤立していった。ポーツマスにいたベリックとイングランド艦隊も抗戦を諦め、オランダ軍は東進しながら支持者を集めていった。
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