マティルダのイングランド上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:30 UTC 版)
「無政府時代 (イングランド)」の記事における「マティルダのイングランド上陸」の解説
しかしスティーブンの失政により、1138年にマティルダの庶兄グロスター伯ロバートが叛旗をひるがえし、ウィンチェスター司教ヘンリーも教会への干渉に反対し、支持を取り消した。1139年、マティルダは支持勢力を引き連れてイングランドに上陸し、ロバートと合流した。1141年2月にリンカーン近辺で両軍は激突し、スティーブンは敗れて捕虜となった。マティルダはロンドンに入城、「イングランド人の女主人(Lady of the English)」と称した。しかし、彼女の高慢な態度は反感を呼び、間もなくオックスフォードに撤退を余儀なくされた。一方、スティーブンの妻マティルドは傭兵隊を率いて抗戦を続け、1142年9月にウィンチェスター近辺の戦いでロバートを捕虜にした。このため捕虜交換が行われ、スティーブンは復位した。マティルダはオックスフォード城で包囲されたが、雪の中を密かに脱出した。この脱出行は後に伝説となった。 その後、戦いはだらだらと続けられたが、1147年にロバートが亡くなると、マティルダはアンジューへ帰った。一方、夫のジョフロワはノルマンディー攻略に専念し、1144年にノルマンディー公を称したが、1151年に熱病にかかって間もなく死亡した。結局この内戦でジョフロワは一度もイングランドへ行くことはなかった。 この内戦によりイングランドは無政府状態となり、『アングロサクソン年代記』ではこの期間を「キリストとその聖者たちが眠っていた」と評している。
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