ブローニュとイングランド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 20:29 UTC 版)
「第五次イタリア戦争」の記事における「ブローニュとイングランド」の解説
皇帝は講和したが、フランソワとヘンリーの間の戦いは続いた。王太子アンリが軍をモントルイユに進め、ノーフォーク公の包囲を解いた。ヘンリー自身は1544年9月末にイングランドに戻り、ノーフォーク公とサフォーク公にはブローニュの防衛を命じた。しかし、今や皇帝はすでに戦争から離脱しており、皇帝からの援軍が期待できないことと、フランス軍が全軍でイングランド軍と戦えることがイングランドにとって不利であった。イングランド軍は混乱に陥り、さらに接近してくるフランス軍が5万人もいるという噂を聞くと、二人はすぐ命令に背き、4千人を残してイングランド軍の大半とともにカレーに戻った。今度はイングランド側のカレー守備軍が数で上回られ、フランス軍に包囲された。王太子アンリは誰にも邪魔されないのを見てブローニュ包囲に集中した。そして、10月9日の総攻撃が成功しそうになったが、まだ占領も終わらないうちに略奪に走ったため逆に撃退された。カレーでは和平交渉が行われたが全く進展しなかった。ヘンリーはブローニュ返還拒否とフランスのスコットランド支援禁止という2点を決して譲らなかったからである。カール5世が仲介役を務めたが、自らもヘンリー8世との不和を抱えていたため交渉をまとめることができなかった。 ヘンリー8世に譲歩させるため、フランスはある行動に打って出た。イングランド上陸計画である。その準備としてノルマンディーに3万人の陸軍を集め、船400艘をル・アーヴルで待機させた。艦隊の指揮官はクロード・ダヌボー(英語版)だった。1545年5月31日、フランス遠征軍がスコットランドに上陸した。7月、初代ノーサンバーランド公爵ジョン・ダドリーが艦隊を率いてフランス艦隊を攻撃したが、天候不順で失敗した。しかし、フランスもアクシデント続きであった。ダヌボーの旗艦が炎上し、その代わりの旗艦が座礁した。ともかく、7月16日に出港したフランスの大艦隊は19日にソレント海峡に入り、短期間ながらソレントの海戦(英語版)を戦った。攻撃は失敗し、イングランド艦隊にほとんど損害を与えられなかった。一番大きい損失をおこしたメアリー・ローズの沈没は事故であった。21日にフランスのワイト島侵攻(英語版)がおき、25日にもフランス軍がシーフォード(英語版)に上陸したが、どちらも短期間で撃退され、結局フランス艦隊はブローニュの海上封鎖に戻った。ダヌボーは8月15日に最後の攻撃としてビーチー岬に上陸したがこれも短期間で撤退した。
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