ブローニュとアルメ・ド・ラングルテル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 02:49 UTC 版)
「ブローニュの襲撃」の記事における「ブローニュとアルメ・ド・ラングルテル」の解説
詳細は「ナポレオンのイギリス侵攻計画」を参照 ナポレオンは、イギリス侵攻のために、アルメ・ド・ラングルテル(Armee de l'Angreterre)を乗艦させるための主要な港の一つとして、英仏海峡に面したブローニュを選んだ。1790年代の終わりごろから、フランス部隊を輸送するために、侵攻用の小艦隊を多くの港からイギリス侵攻に向かわせる準備は行われていたが、アミアンの和約により、この計画は棚上げされていた。英仏交戦の再開の結果、ブローニュの郊外に部隊が集められ、大規模な陸軍の宿営地が建設されて、侵攻艦隊を集める準備として港が要塞化された。ナポレオン自身、1804年の8月16日にブローニュを訪れて、部隊を閲兵し、メダルを授与した 。侵攻を成功させるための主な障壁はイギリス海軍であったが、ナポレオンは、フランス艦隊が海峡を6時間だけ制することができれば、イギリスへの航海は成り立つと公言していた。その一方で、イギリスの地上配備の防御は、10万以上にも及ぶ人数の侵攻軍を迎え撃つには、準備が十分でなく、装備も行きわたっていなかった。フランスの侵攻艦隊が海か港で破壊されでもしない限り、侵攻軍がイギリスに上陸してロンドンに進軍を始めた直後に、イギリスの南部の地域が持ちこたえられるのか疑わしかった。フランス軍が出港すると予想される出発点はわかっており、イギリス海軍がその地点で強固に海上封鎖をしていたものの、第一海軍卿のメルヴィル卿ヘンリー・ダンダス(英語版)には艦が不足していた。もしフランスとスペインの連合艦隊が、封鎖地点の駐留地から少しの間でもイギリス海軍を追いやれば、フランスの侵攻は何の邪魔も受けずに成し遂げられたことであろう 。 イギリスで緊張感が高まるにつれて、著名な政治家たちが、予想される侵攻を少しでも遅らせたいという希望から、自国で停泊中のフランス軍艦を攻撃するよう提案した。しかし一方で、フランスの大西洋沿岸の港は防御工事が大急ぎで行われていた。ブローニュはもう何年も前から堅固に要塞化されており、多くのありきたりな襲撃ではすでに効果がなかった、1801年にネルソンが指揮した襲撃もしかりだった。上陸用舟艇は、数珠つなぎに投錨した軍艦が二重に取り囲んでおり、これらの艦を断崖の上に整列した砲台が守っていた。これを破るには新手の作戦が必要だった。
※この「ブローニュとアルメ・ド・ラングルテル」の解説は、「ブローニュの襲撃」の解説の一部です。
「ブローニュとアルメ・ド・ラングルテル」を含む「ブローニュの襲撃」の記事については、「ブローニュの襲撃」の概要を参照ください。
- ブローニュとアルメ・ド・ラングルテルのページへのリンク