イングランド・スコットランド同君連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 14:29 UTC 版)
「イギリスの歴史」の記事における「イングランド・スコットランド同君連合」の解説
スコットランド王ジェームズ4世は、イングランド王ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーと婚姻した。これによってスコットランドとイングランドはそれまでの対立的関係から同盟的な関係へと移行することになった。又彼等の子息ジェームズ5世の子孫にはイングランド王位の継承権が発生した。 女王エリザベスが独身のまま死去すると、上記の婚姻関係からスコットランド王ジェームズ6世が王位継承者に指名された。これによってスコットランド、イングランド両国は同君連合に発展した。イングランド王ジェームズ1世とその息子チャールズ1世は、イングランド、とりわけ王権を伸張する国教会のシステムを気に入りスコットランドにも持ち込もうとした。これによってスコットランドでは主教戦争が起きるがチャールズはこの戦費を賄う財源を求めて議会を開催した。しかし王の要求は受け入れられず国王と議会が軍事的に対立することになった。これが清教徒革命の始まりである。この対立はオリバー・クロムウェル率いる鉄騎兵によりチャールズが捕らえられ、1649年に処刑されることでイングランドにおいては一定の決着が図られた。 王位継承者であるチャールズ2世はフランスに亡命した。ここでルイ14世の好意からカトリックの影響を受けた。これによってカトリック世界に残留したアイルランドとの接点が生まれた。さらにイングランドによって勝手に自国の王を処刑されたスコットランドはチャールズ2世の即位を認める方針を示したのでチャールズはスコットランドやアイルランドを足場に王政復古の運動を行うことができた。イングランド共和国を率いるクロムウェルは王党派を弾圧するためにスコットランド、アイルランドに対して出兵し両地域の王党派やアイルランドのカトリックに対して大弾圧を加えた。 その後イングランドではクロムウェル亡き後の混乱からチャールズ2世の王政復古を認めるがチャールズ2世の後を継いだジェームズ2世の後継者問題を巡って再び紛糾し、ジェームズ2世はイングランドを追い出された。これがイングランドにおける名誉革命であるが、スコットランドやアイルランドではジャコバイト反乱として反映されることになった。ジェームズはカトリックであったのでアイルランドの支持を受けやすかった。またスコットランドは再び勝手に自国の王を挿げ替えたことにたいして反発した。結果としてジャコバイトのリバイバルは成功せず、むしろこの2回の抵抗によって両地域におけるイングランドによる支配権が増す結果になった。 結局スコットランドは1707年の合同法によってイングランドと一体化することになり、またアイルランドはイングランドの植民地化が徹底されることになった。
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