オリックス・西武時代
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1994年11月11日には伊藤敦規・飯塚富司との2対3の交換トレードにより、渡部高史・堀江賢治と共にオリックス・ブルーウェーブへ移籍することが発表された。これは当時、先発投手が不足していた横浜が、先発・救援の双方に対応できる伊藤の獲得を希望し、水尾との1対1のトレードを申し入れていたものだが、オリックス側が1対1のトレードに難色を示したため、横浜が左投手の渡部と内野手の堀江をトレード要員に追加し、オリックス側も飯塚をトレード要員に加えたことにより成立したものだった。オリックス移籍後は仰木彬監督の指示を受けて中継ぎに転向。本人は後年、中継ぎとして活躍したオリックス時代について「活躍できたのは仰木監督のおかげ。仰木監督はベンチの選手全員を戦力と考え、チャンスを与えようとする人だった」と述べている。 オリックス移籍1年目となる1995年は、シーズン最終戦(消化試合)の10月2日に対近鉄バファローズ戦で移籍後初登板・初先発すると、プロ入り5年目で初勝利を記録した。しかし、移籍2年目の1996年は一軍ではわずか1試合の登板に終わった。同年オフには腰を手術したため、翌シーズンの契約は術後の経過を観察しつつ、春季キャンプ後まで保留することとなった。 1997年以降は中継ぎ投手として活躍し、同年は橋本武広(西武ライオンズ)とともにセ・パ両リーグ最多となる68試合に登板して1勝2敗2セーブ・防御率2.26の成績を残し、シーズンオフには年俸が2,200万円と大幅に増額された。翌1998年もチーム最多となる55試合に登板し、3勝0敗・防御率1.89の成績を残し、中継ぎエースの座を築いた。1999年は年俸3,300万円でシーズンに臨み、30試合にリリーフとして登板(投球回数:12回/0勝0敗・防御率3.00)したが、左肘を痛めて9月に軟骨除去手術を受けた。2000年シーズン(推定年俸2,700万円)は8月に対西武戦で1,711日ぶりに先発登板したが、わずか9試合の登板(0勝1敗・防御率5.19)に終わった。同シーズン終了後(10月6日)にオリックスから戦力外通告を受け、西武へテスト入団。 西武移籍1年目の2001年(推定年俸:1,800万円)はチーム3番目となる48試合に登板して2勝1敗・防御率3.99の成績を残し、2002年(推定年俸:2,100万円)も35試合に登板して防御率1.80(勝敗なし)の成績を残した。しかし、このころには腰痛を抱えながら投げていたことで首にしびれが出るようになっていった。 2003年シーズン(推定年俸:3,000万円)は2試合の登板に終わり、同年10月9日に再び西武から戦力外通告を受けた。12月2日付でNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示され、同年限りで西武を退団。 西武退団後、複数球団の入団テストを受験したが、日本 (NPB) ではどの球団からも高年齢(当時35歳)を理由に採用されず、学生時代からの夢だったメジャー (MLB) 挑戦を目指して渡米。2004年3月22日に行われたアナハイム・エンゼルスの入団テストに合格し、同月29日に33万5,000ドル(約3,685万円)のメジャー契約(1年契約)を結んだ。傘下のAAA級ソルトレイク・スティンガーズで開幕を迎えるが、メジャーに昇格することなく5月2日に40人枠から外れる。本拠地ソルトレイクの標高が1,288 mと高かったことから高山病の症状に悩まされ、腰痛・首痛・手のしびれから満足な投球をできなくなった。ソルトレイクでも24試合の登板で0勝4敗、防御率6.18、WHIP1.80の成績を喫し、7月17日にAA級アーカンソー・トラベラーズに降格し、アーカンソーでは9試合の登板に終わった。 2006年2月3日に首痛の悪化から現役引退を表明。最終的には左肘の手術回数は7回におよんだ。
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