オリオールズ黄金時代とは? わかりやすく解説

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オリオールズ黄金時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/19 13:48 UTC 版)

1894年のメジャーリーグベースボール」の記事における「オリオールズ黄金時代」の解説

もともとアメリカン・アソシエーションチームであったオリオールズは、リーグ解散後ナショナルリーグ合流した1892年12位の最下位であった。その年に監督となったネッド・ハンロンチーム再建に力を注いだ同年ピッツバーグからジョー・ケリーを、1893年にはルイビルからヒューイー・ジェニングスを、1894年1月にはブルックリンからダン・ブローザースウィリー・キーラー獲得する一方で1891年デビューしたジョン・マグローハンロン監督は勝つための様々な戦術内野手のカットオフ・プレー、ヒットエンドランボルチモア・チョップなど)を考案したボルチモア・チョップ (Baltimore Chop)とは、打者が球をグラウンド打ち付けて高くバウンドする内野安打のことで、ウィリー・キーラーなどが得意としてボルチモア選手に多いヒットであったため「ボルチモア・チョップ」と呼ばれるようになった。元々は、ヒットエンドラン送球中継プレーなど当時誰も思いつかなかった戦術考案していたネッド・ハンロン監督と、後に監督になるジョン・マグローコンビキーラー発案打法練り上げ完成させたもの、と言われている。これが成功するにはグラウンド必要以上に固くすることが重要で、しかも一塁側の内野固くさせて、そこへ叩きつけるバッティングをすれば高くバウンドをすることを計算して打法である。 優勝したボルチモア・オリオールズ1882年から1899年までのチームで、ニューヨーク・ヤンキース起源となった1901年1902年オリオールズでもなく、ミルウオーキーからセントルイス経た現在のオリオールズにも当然つながってはいない。あくまで19世紀ボルチモア・オリオールズである。しかしこのネッド・ハンロン監督オリオールズメンバーから20世紀初頭にメジャーリーグ監督になった者が数名いて、ジョン・マグローニューヨーク・ジャイアンツ監督ウィルバート・ロビンソンブルックリン・ロビンス(後のドジャース)監督ヒューイー・ジェニングスデトロイト・タイガース監督となり、しかもこの3人ともそれぞれチームリーグ優勝導いている。また盗塁王になったジョー・ケリー1902年シンシナティ・レッズ選手監督となり、その後任の監督ネッド・ハンロンであったウィリー・キーラーは、1892年イースタンリーグプロとしてスタートした左腕投手だったがすぐに左利き三塁手転向して打率.373でマイナーリーグ首位打者になってすぐにニューヨーク・ジャイアンツ引き上げられた。しかし当時ジャイアンツ監督ジョン・モンゴメリー・ウォードはキーラー小柄すぎてメジャーでは無理と判断して1893年ブルックリン・ブライドグルームス(後のドジャース)にトレードし、さらにシーズン終了後ダン・ブローザースと共にオリオールズトレードされた。わずか1年半の間に3チームたらい回しにされる程に期待される選手ではなかった。身長164センチ小男だったのでWee Willie(小さなウィリー)と呼ばれた。しかしこの1894年オリオールズ来てネッド・ハンロン監督キーラー三塁手から右翼手転向させ、ジョン・マグローと共に1番、2番を組ませたことでキーラーは、打撃面でも巧みバットコントロール才能発揮し最初は地味であったレギュラー獲得し、やがて超一流選手となった相手前進守備の時は野手の頭を超える打球放ち、また深く守っているときはバント仕掛けるなどの技巧をこらし、この年打率.371、219安打打ち、また得点165打点94上げた以後8年連続200安打以上を打ちブルックリン・スパーバス(後のドジャース)からニューヨーク・ハイランダース(後のヤンキース)に移り1910年に再びニューヨーク・ジャイアンツ戻ってきた。通算19年間で通算打率.341(.345とする資料もある)の小さな選手であった。(1939年殿堂入りジョー・ケリーは、オリオールズ中心バッターとして4連覇貢献し強打強肩俊足闘志溢れた外野手(主にレフト守った)だった。4連覇時の1894年から1897年にかけては打率が.393(.391)、.365(.371)、.364 (.370)、.362(.390)でオリオールズけん引車であったカッコ内は別途資料打率である)。首位打者タイトル取れなかったが、1896年盗塁8790とする資料もある)で盗塁王となった。(1971年殿堂入りこの年ボストン・ビーンイータースの強打者ヒュー・ダフィーは、125試合237安打し近代野球以前のメジャーリーグシーズン歴代最高打率.440(打率.438とする資料もある)を記録するなど、安打127本、打点145(この打点についてはサム・トンプソン147となっている)、本塁打18本、二塁打51本でリーグ最高の数字記録した。またこの年ダフィーが「三冠王であったことは、後年になって記録再調査判明した(しかし再調査結果サム・トンプソン打点について詳細不明)。1888年シカゴ・ホワイトストッキングス振り出し1906年フィラデルフィア・フィリーズまで通算17年メジャーリーグ活躍し1889年から9年連続3割を打った170センチ身長小柄だ猛烈なハードヒッターであった生涯打率.326(.330とする資料もある)で1945年殿堂入りした。 ヒュー・ダフィー活躍目立たないのだが、1894年に4位であったフィラデルフィア・フィリーズチーム打率.3497で、この年チームには4割打者が4人(タック・ターナー.418 サム・トンプソン.407 エド・デラハンティ.404 ビリー・ハミルトン.403)、3割打者が3人いて、しかもチーム盗塁数が277で、とてつもない記録つくったタック・ターナースイッチヒッター(左投げ両打ち)ながら打率4割を記録しており、これは4割打者中でも唯一の記録である。ただし1894年ナショナルリーグ全体打率が.309と、極端に打高投低の年でもあったと言われている。

※この「オリオールズ黄金時代」の解説は、「1894年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「オリオールズ黄金時代」を含む「1894年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1894年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。

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