ウリ党の解体と離合集散
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「韓国における政党史」の記事における「ウリ党の解体と離合集散」の解説
第17代総選挙では、弾劾に反対する国民の支持を集めて第一党になったウリ党であるが、党分裂による支持基盤の弱体化、経済政策の失敗などから国民の支持が急落、2005年と2006年に行われた国会議員再選挙ではいずれも全敗した。そして2006年5月に行われた全国同時地方選挙でも、広域自治団体長当選者は鄭東泳議長の出身地である全羅北道のみ、広域議員選挙でも首都圏地域区で全敗する結果となった。相次ぐ選挙で全敗し、このままでは2007年の大統領選挙を戦うことが出来ないと考えたウリ党内では、かつて袂を分かったはずの民主党(2005年に新千年民主黨から党名改称)を含めた進歩主義勢力の統合新党を模索する動きが強まった。 表16:総選挙後及び再・補選後における党派別議席数の変動ウリ党(統合新党集い)ハンナラ党民主党民労党自民連(国民中心党)無所属第17代総選挙(2004年4月) 152 121 9 10 4 3 2005年 4月30日再補選 146 125 9 10 3 6 10月26日再補選 144 127 11 9 3 5 2006年 7月26日再補選 142 127 12 9 5 5 10月25日再補選 141 127 12 9 5 5 2007年 4月25日再補選 108(24) 128 12 9 (6) 12 出典:총선 및 재․보궐선거에 따른 의원 변동상황(総選および再・補欠選挙における議員変動状況)。국회사무처(大韓民國國會事務處)『대한민국국회 60년사(大韓民國國會60年史)』、873頁。 注:自民連は、2006年2月20日にハンナラ党との統合を決定。一部勢力は1月17日に元忠清南道知事である沈大平が結成した国民中心党に参加した。 こうした中、与党系及び中道勢力の重鎮であった高建元国務総理が大統領選挙への出馬を断念(1月16日)した。このことをきっかけに議員の離党が相次ぎ、2月6日に金ハンギル前ウリ党院内代表など23人が集団離党したことでウリ党は第2党に転落することになった。こうしてウリ党は結党から4年目にして解党への道を突き進むこととなった。集団脱党した議員グループは2月17日に院内交渉団体として国会に登録した「統合新党の集い」(통합신당모임)を、5月7日に「中道改革統合新党」を結成、翌6月に金大中前代表の元与党である民主党と合併して「中道統合民主党」(8月に党名を再度「民主党」に変更)を発足させた。 一方で鄭東泳や金槿泰、ハンナラ党を離党した孫鶴圭を中心に与党系勢力の結集を図る動きが展開され、8月5日に民主党からの離党者も合流した「大統合民主新党」が発足、20日に親盧武鉉派のみとなったウリ党を吸収合併して第一党となった。こうしてウリ党は結成からわずか3年余りでその歴史に幕を下ろすこととなった。 表17:与党系の再編過程2007年 2月6日 金ハンギル前院内代表を中心とする23名がウリ党を集団脱党 2月17日 集団離党グループ、院内交渉団体「統合新党の集い」として登録 5月7日 金ハンギルを中心とするウリ党離党者で「中道改革統合新党」(統合新党、代表:金ハンギル)を結成 6月17日 文喜相元ウリ党議長を中心とする議員17名がウリ党を集団脱党 6月27日 統合新党と民主党が統合して「中道統合民主党」(統合民主党)発足 8月3日 統合民主党から金ハンギルら19名脱党。党名を「民主党」に戻す(13日) 8月5日 ウリ党離党者を中心に「大統合民主新党」(民主新党)結成。呉忠一を代表に選出。 8月20日 民主新党、ウリ党を吸収合併。第一党(143議席)となる。 2008年 2月17日 民主新党と民主党が合同。「統合民主党」発足 出典:열린우리당 창당에서 대통합신당과의 합당까지(開かれたウリ党から大統合新党との合同まで)、前掲著876頁。アジア経済研究所編『アジア動向年報 2008』 12月に行われた大統領選挙は事実上、ウリ党の後身である民主新党の鄭東泳(チョン・ドンヨン)候補と第1野党ハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)候補、元ハンナラ党総裁で元同党大統領候補であった李会昌(イ・フェチャン)候補の3者による争いとなった。選挙の結果、李明博候補が鄭東泳候補らに圧倒的大差をつけて当選を果たし、ハンナラ党は1997年の選挙以来、3度目の大選挑戦で与党になった。
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