アートディレクターとして
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「信藤三雄」の記事における「アートディレクターとして」の解説
1984年、松任谷由実のシングル『VOYAGER〜日付のない墓標』、アルバム『NO SIDE』のジャケットデザインを担当し、本格的にジャケットデザインに携わるようになる。1985年、自身のデザイン事務所を設立。設立当初はシンチャン・スタジオ (Sing Chang Studio) といったが、すぐにコンテムポラリー・プロダクション (C.T.P.P.) に改名した。 1986年、ピチカート・ファイヴのシングル『ピチカート・ファイヴ・イン・アクション』のジャケットを手がけたのを皮切りとして、その後ピチカートのほとんどのCD/レコードのアートディレクションを担当するようになる。「自分と同じ価値観を持つ人/アーティストだった」と彼が評する小西康陽とのコンビにより新しいアイデアを盛り込んだデザインを次々に発表していった。ピチカートのほかにも、フリッパーズ・ギター、オリジナル・ラヴ、小山田圭吾のトラットリアレーベル、クレモンティーヌといった、いわゆる「渋谷系」にカテゴライズされるCD/レコードのジャケットデザインを数多く手がけた。川勝正幸はCTPPを「『渋谷系のCI』と言っても過言ではない大きなヴィジュアルの流れを作った」と評し、そのジャケットデザインの特徴を以下のようにまとめている。「①音楽性やテーマをワン・アイデアで、明解にヴィジュアルに翻訳している。②マニアックなネタを素にしながらも、メジャー感がある。つまり、デザインにフェロモンがある。③ミュージシャンと一緒に走っている勢いがデザインにもある。要するに、同時代性を感じさせる。④業界のオキテ破り的な、特殊パッケージが多い」。 ジャケットデザインにおける特徴のひとつである外国の雑誌、広告、レコード、ポップアートといった過去のポップカルチャーからの“引用”は、ちょうど渋谷系の音楽的な特徴とも同調していた。特殊パッケージの積極的な使用については「動機はCDが登場してからデザインの面が小さくなっちゃったから、単純に考えるとつまんないじゃないですか、それをいかに面白くするかなんですよね。子供がおもちゃを買ってうれしいな、みたいなシンプルな動機の実現ていうか。シールが入ってたり、組み立てられる何かがあったり、そういうことを考えるのが楽しくて」とその理由を語る。1980年代後半の媒体がアナログレコードからCDに切り替わっていった時代については「CDの、プラスチック・ケースの手触りが嫌だったんだよねえ。だから泣く泣くCDのデザインをやってました」「実はあの頃のピチカートとフリッパーズで、やっと“CDというフォーマットで何が出来るんだろう?”と真剣に考え始めたんですね。やっぱり何だかんだ言ってもアナログをデザインしたいんです。でも出来ないから一種の代理戦争みたいな…。CDでのデザイン的な戦いというか」と振り返っている。両面印刷のバックインレイ(背ジャケット)を見せるためにCD盤の受け皿を透明トレイにするというアイデア(発案は小西による)の採用は、1989年リリースの『女王陛下のピチカート・ファイヴ』がおそらく世界初、または初めてではなくても相当に早かったといわれ、その後のCDパッケージのデザインにおいてポピュラーなものとして定着した。
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アートディレクターとして
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「岡田修二」の記事における「アートディレクターとして」の解説
1987年(昭和62年)に電通に入社し、アートディレクターとして勤務した。1994年(平成6年)、電通を退職した。なお、1994年(平成6年)から1999年(平成11年)まで、ニューヨークアートディレクターズクラブの国際会員であった。
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