アンティータム
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「雷轟 rolling thunder PAX JAPONICA」の記事における「アンティータム」の解説
1862年、アンティータム。南軍兵士のマーク軍曹は後にブラッディ・レーンと名づけられた農道で戦っていた。既に戦闘はピークを迎えており、南軍戦線中央部の崩壊は時間の問題となっていた。北軍第二軍団の消耗は激しく、その攻勢は限界に達していたものの、無傷の予備戦力を投入する事で南軍の戦線は破綻しこの戦争に決着をつけられる――その筈だった。
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アンティータム
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「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「アンティータム」の解説
9月16日、マクレランはシャープスバーグの近くでアンティータム・クリークの西側に戦列を布いて守っているリー軍と対峙した。9月17日の明け方にアンティータムの戦いが始まり、ジョセフ・フッカー少将の軍団がリー軍の左翼に力強い攻撃を仕掛けた。攻撃側も反撃する側もダンカー教会の近くのミラー・コーンフィールドや森を駆け回った。北軍は窪んだ道路(「血の道」)に攻撃を掛け、最終的に南軍の中央を突き破ったが、その攻勢も続かなかった。 午後になって、バーンサイドの軍団がアンティータム・クリークに架かる石橋を渡って南軍の右翼に回り込んだ。その重要なときに、ヒルの師団がハーパーズ・フェリーから駆けつけ反撃して、バーンサイドの部隊を追い出し、リー軍を崩壊から救った。勢力的には2対1で北軍が勝っており、リー軍は全軍を投入し、マクレランはその4分の3に欠けるぐらいを使っていた。このことでリーは旅団を動かして北軍のそれぞれの攻撃に集中させることができた。この時の損失は23,000名にも上り、アメリカの歴史の中でも最も流血の多い一日となった。リーは疲れ果てた北バージニア軍にポトマック川を越えてシェナンドー渓谷まで引き返すよう命じた。アンティータムの戦いは戦術的には北軍の小さな勝利だったが、戦略的には北軍の重要な勝利と考えられている。リーのメリーランドを侵すという戦略的攻勢は敗れた。そしてさらに重要なことは、リンカーン大統領がこの機会を捉えて奴隷解放宣言を発したことであり、その後は南軍に肩入れしていたヨーロッパ列強の干渉がはっきりと消えていったことであった。
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アンティータム
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「第12軍団 (北軍)」の記事における「アンティータム」の解説
第二次ブルランの戦いの後、軍団はポトマック軍に復帰し、第12軍団と名称を変えてメリーランド方面作戦に参加した。軍団長には古参のマンスフィールドが就任した。師団及び旅団編成はシダー山の戦いの際と同じであったが、オウガーに代わってジョージ・S・グリーン准将が第2師団長となった。損害を補填するために、北部の州からの5個志願兵連隊が追加されたが、内3個連隊はペンシルベニアで集められた兵で構成されており、任期は9ヶ月にすぎなかった。第12軍団の規模は、非戦闘員も含んで12,300人となった。隷下には22個歩兵連隊、3個野砲中隊から構成されていたが、軍の中では最小の軍団であった。 9月14日のサウス山の戦いでは、第2軍団と共に中央で予備とされた。山麓で始まった戦いが見える位置まで行軍はしたものの、戦闘には参加しなかった。アンティータムの戦いでは、9月17日の早朝から戦闘を開始しダンカー教会の付近まで前進したが、密集隊形で前進したため大損害を受けた。マンスフィールドも狙撃され瀕死の重症を負い、ウィリアムズが軍団の指揮を引き継いだ。軍団の損害は、戦闘に参加した約8,000人に対し、戦死275人、戦傷1,386人、行方不明85人、合計1,746人であった。 マンスフィールド死亡後の軍団長には、第6軍団長であったヘンリー・W・スローカム少将が就任した。スローカムは半島方面作戦とクランプトン・ギャップの戦い(Battle of Crampton's Gap)で輝かしい戦績をあげていた。第12軍団は12月までハーパーズ・フェリー近郊に留まり、その後バージニアに戻り、スタフォードコートハウスで冬営に入った。
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