アレクシオス・カレルギスによる大反乱
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「ヴェネツィア領クレタ」の記事における「アレクシオス・カレルギスによる大反乱」の解説
アレクシオス・カレルギスがヴェネツィアと現地の同胞たちとの間で二股をかけ、陣営を行き来していたにもかかわらず、コルタツィス兄弟が敗北した結果アレクシオス・カレルギスはクレタ島の貴族たちの中で最も尊敬されるべき地位に居残った。その強大な財力と、その封土となったミュロポタモス(英語版)の戦略的重要性もまた、彼に大きな力を与えた。このことが彼に対する不信をヴェネツィア人に抱かせた。だが、アレクシオス・カレルギスの力を抑制しようとするヴェネツィア人の努力は裏目に出て、1282年にクレタ島の全ての反乱の中で最大かつ最も暴力的な反乱の勃発を引き起こした。この反乱もビザンツ皇帝ミカエル8世がヴェネツィア人を攪乱するために秘密裡に支援していた可能性が高い。ヴェネツィア人たちはミカエル8世の最大の敵であるシチリア王カルロ1世と同盟を結んでいた。 カレルギスの反乱には最も有力なクレタ貴族たち、ガバラデス家(Gabalades)、バロウチェス家(Barouches)、ヴラストイ家(Vlastoi)、そしてテオドロスとゲオルギオスの甥ミカエル・コルタツィスさえも参加した。反乱は急速に島全体に拡大した。ヴェネツィア人は報復処置を取ってこれを抑えようとした。彼らはしばしば基地や避難所として反乱軍に使用されていた正教会の修道院に火をかけ、捕虜を拷問にかけた。1284年初頭、かつての反乱でその拠点となったラシティ高原への移住と居住は羊の放牧さえも含めて完全に禁止されることが宣言された。しかし、ヴェネツィア本国から絶え間なく援軍が送り込まれているにもかかわらず、反乱は鎮圧することができなかった。ヴェネツィア当局はカレルギスや他の反乱指導者たちの捕縛も試みたが、成功することはなかった。ジェノヴァとの間に戦争が勃発した後の1296年には状況はヴェネツィアにとって切迫したものとなった。ジェノヴァの将軍ランバ・ドリア(英語版)はカネアを占領して火を放ち、カレルギスの下へ、彼をこの島の世襲君主とすることの承認、およびジェノヴァとの同盟を提案するための使者を送った。しかしながら、アレクシオス・カレルギスはこれを拒否した。彼のこの行動は、戦争による疲弊や内部対立と共にクレタ人の指導者たちに反乱の終了とヴェネツィアとの和解の道筋を開いた。 この反乱は「アレクシオス・カレルギスの平和(ラテン語: Pax Alexii Callergi)」と共に終了し、1299年4月28日、クレタ公ミシェル・ヴィターリ(英語版)との間に和平条約が調印された。条約の第33条では、大赦と没収された全ての資産の返還、反乱指導者たちが反乱前に持っていた特権の確認、さらに反乱指導者たちの未返済の債務を返済するために2年間の免税が約束された。また、反乱発生中に確立された裁判結果が承認されるとともに、クレタ人とヴェネツィア人の婚姻禁止が解除された。アレクシオス・カレルギスは広範に渡る新たな特権を与えられ、4つの追加封地、称号と元々の自身の領地[訳語疑問点]、軍馬を維持する権利、各地の修道院の資産を借用する権利、アリオス(Arios)主教区(カッレルギポリスと改名された)で正教会の主教を叙任する権利、そして隣接するミュロポタモスとカラモナスの主教区を借用する権利を得た。 この条約はアレクシオス・カレルギスをクレタ島の正教徒住民の実質的な統治者とした。エフェソスがトルコ人に陥落させられた際にクレタ島へと逃れた同時代の年代記作家Michael Louloudesは、アレクシオス・カレルギスを「クレタの主(Lord of Crete)」と呼び、ビザンツ皇帝アンドロニコス2世の直後に言及している。カレルギスは以降、和平条約の条項を断固として遵守し、明瞭にヴェネツィアに忠誠を保ち続けた。ヴェネツィア当局の機能を停止させた1303年の破滅的な地震(英語版)の後に続く新たな反乱は、アレクシオス・カレルギスの仲介によって阻止された。その後、1311年に、クレタ公はアレクシオス・カレルギスに手紙でスフィキアでの反乱扇動者の情報収集を依頼した。1319年に別の反乱がスフィキアで発生した時、アレクシオス・カレルギスはジョスティニアーニ(Giustiniani)公と反乱軍の間を取り持ち、それを終結させた。同じ年、ヴラストイ家(Vlastoi)とバロウチェス家(Barouches)の別の小規模な反乱も発生したが、これもまたアレクシオス・カレルギスの仲介によって終了した。ヴェネツィア人はカレルギス一族をヴェネツィア貴族として『Libro d'Oro』に記載し、その功績に報いたが、アレクシオス・カレルギスのヴェネツィアに対する忠誠は別の偉大なクレタ貴族家系からの敵意を呼び、ミュロポタモスで彼の暗殺が試みられた。アレクシオス・カレルギスはその晩年を1321年の死亡まで安全を求めてカンディアで過ごした。彼の敵対者たちは暗殺の企てを続けたが、アレクシオス・カレルギスの暗殺はついに成功せず、ただ彼の息子アンドレアス・カレルギスをその側近の大半もろとも殺害することのみ成功した。
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