アレクシオス1世の即位と東ローマ帝国の中興とは? わかりやすく解説

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アレクシオス1世の即位と東ローマ帝国の中興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:42 UTC 版)

コムネノス王朝」の記事における「アレクシオス1世の即位と東ローマ帝国の中興」の解説

1081年皇帝イサキオス1世コムネノスの甥で、軍事貴族コムネノス家出身将軍アレクシオス・コムネノスが、時の皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスに対して反乱起しニケフォロス3世退位させて皇帝即位したアレクシオス1世紀)。アレクシオス即位は、コンスタンティノープル高級官僚として、その地位築いた文官貴族と、地方属州拠点とする軍事貴族対立の中で後者勝利を意味するとされる場合がある。このニ類型論ゲオルク・オストロゴルスキーによって提唱され東ローマ学会大きな影響与えた。しかし、現在ではこの説はほとんど放棄されと言ってよい。コムネノス朝時代爵位形態は、コムネノス家姻戚血縁関係にある有力貴族のみが爵位与えられ地位を得ることのできるシステムであった。つまり、庶民皇帝まで登りつめる可能性すらあった身分的流動性のあるそれまで東ローマ帝国から大きく姿を変えていった時代でもある。 当時帝国マケドニア王朝時代中央集権制度形骸化し経済力軍事力破綻瀕し帝国にとって重要な小アジア大半セルジューク朝占領され南イタリアマグナ・グラエキア)はノルマン人奪われ北からペチェネグ人侵攻続いていた。アレクシオスの娘アンナ・コムネナは「帝国は息を引き取ろうとしていた」と綴っている。 これを受けて軍事・内政才能優れたアレクシオス1世その子ヨハネス2世2代皇帝果敢に帝国再建挑み周囲の敵を跳ね除け帝国威光取り戻し、およそ100年の間帝国の衰退食い止めることに成功したアレクシオス爵位体系通貨改革したほか、軍事奉仕引き換え一定の地域徴税などを認めプロノイア制度を導入し、ドゥーカス家や各地の有力軍事貴族たちと姻戚関係結んで皇族相当するコムネノス・ドゥーカス一門盟主とする軍事貴族連合政権という形で帝国再編した。こうして国内安定させるヴェネツィア共和国支援受けて海軍力再建し西欧へ傭兵要請した西欧へ傭兵派遣依頼十字軍という想定外結果生んで対応に苦慮することになったその間セルジューク朝から小アジア西部奪回しクマン人援軍得てペチェネグ人打ち破った

※この「アレクシオス1世の即位と東ローマ帝国の中興」の解説は、「コムネノス王朝」の解説の一部です。
「アレクシオス1世の即位と東ローマ帝国の中興」を含む「コムネノス王朝」の記事については、「コムネノス王朝」の概要を参照ください。

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