アメリカパラオ・アンガウル島での戦い
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「舩坂弘」の記事における「アメリカパラオ・アンガウル島での戦い」の解説
アンガウルの戦い(Battle of Angaur)は、第二次世界大戦におけるパラオ - マリアナ戦役最後の戦いであり、この戦いで舩坂は多大な戦果を上げることになる。擲弾筒および臼砲にて米兵を100人以上殺傷したといわれる。水際作戦により中隊が壊滅する中、舩坂は筒身が真っ赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。 3日目には、舩坂も米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやくやって来た軍医は、傷口を一目見るなり、自決用の手榴弾を手渡して立ち去って行ったという。 瀕死の重傷を負いながらも舩坂は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。その後も瀕死クラスの傷を負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、数日で回復しているのが常であった。 これについて舩坂は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。 舩坂は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で2人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺すなど、奮戦を続けていた。実際、舩坂の姿を見た部隊員たちから、不死身の分隊長と形容する声が聞かれるほどであった。 しかし、食料も水もない戦場での戦いは日本兵を徐々に追い詰めて行き、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相を醸し出していた。弘自身も腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり、その傷口から蛆虫が涌くのを見るにつけ、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を図ったが、手榴弾は不発であった。舩坂は暫し茫然とし、自決未遂という現実に、なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのかと、深い絶望感を味わったという。 戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。また、長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。 舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。 米軍の動揺を尻目に船坂は司令部目掛け突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、左頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている。当初船坂は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で話題となった。舩坂の無謀な計画に対し、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。
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