アニミズムと霊魂観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 02:22 UTC 版)
八百万の神に代表されるように古くからある神道はアニミズムの色を帯びていて、無機物である岩などにも注連縄をして祀っているのはその一端である。言霊信仰というのも言葉に力が宿るという考えだが体内から出る息に霊魂を見る発想で息すなわち風である。「生霊」の観念はその表れで古くはどの時点で死んだと言えるか明確でない時代があった。殯(もがり)の風習はその一例で魂(たま)が完全に遊離しない限りは復活の希望があると見なし魂振り・魂鎮め(後、鎮魂に意味が転化)を行う。これは天の岩戸を開いた天鈿女命の神話に由来するとされる(『古語拾遺』)。ここからは、天照大神が隠れることは、象徴的な死であり、岩戸を開いたことは日の出すなわち復活=黄泉がえりという示唆が導かれる。古くは疫病などは悪しき風によって起こると考えられたらしく「風邪」が元は広く疫病のことを指し邪霊の所為と考えられていたと柳田は『風位考』で指摘し、 「まきむくのあなしの山に雲ゐれば雨ぞ降るちふ帰りこわがせ」 という歌を引き後に穴師神社が建てられ祀ることとなったと考察する。小学館『日本国語大辞典』では「あなぜ(「あな」は感動詞、「せ」は風の意。「あなじ」とも)」とあり船を苦しめる悪い風としている。後に触れる御霊信仰の一つ牛頭天王を祀るところでははっきり疫病神を鎮める性格を持っている。牛頭はまた現在の鬼のイメージの元でもある。現在一般にイメージされる姿は平安時代頃羅刹の姿が混入して定着したものだが「鬼」という字は漢字に当てたもので時代を遡ってみると「もの」という言い表しがたい存在(隠の意に相当)に行き着く。これはおそらく祖霊のことで、喜ばしいものと受け取った形は盆行事、歳神を迎える正月などの祖霊信仰に見て取れる。愛知・長野・静岡の山深くに伝わる花祭りでは出る翁と鬼は共に山から祝福に来る者であるが、ここでは幸をもたらすものと災いをもたらすものの区別が曖昧になり、両者の共通ルーツを示唆している。御霊会(訓ではみたまと読み、元々悪い霊という意味はなかった)も不慮の死を遂げた死者の霊の魂鎮めに変化していく。『往生要集』にも「一切の風の中には業風を第一とす。かくの如き業風、悪業の人を将ゐ去りて、かの処にいたる」という表現が見える。これらは正統的教義とは別に民間信仰に根強く伝わっていったのであった。 霊魂が浄土などの彼岸に行ったままではなく帰って来ることもあるという観念と関連して、中国やインドなどに分布する輪廻との関係も見逃せない。両者は一種の霊魂不滅という点で共通するからである。ずっと後の近世にも転生の話が伝わっており、平田篤胤の蒐集した勝五郎蘇生譚について詳しいものが『柳アン(かんむりが大の弇)雑筆』にある。それによると勝五郎九歳の時、武蔵国多摩郡程窪村(現日野市)の農民藤蔵の生まれ変わりを証明して世間の注目を集めたという。時代は更に遡り『曽我物語』で知られる曾我時致(五郎)の霊は死して伊豆国田中荘の五郎太夫に再生し、兄曾我祐成(十郎)の冥苦を救ったという。さらに五郎は常陸国水戸六地蔵寺の僧恵範に三生し、武田晴信(信玄)に四生、長谷小池坊専誉僧正に五生、六波羅蜜寺の恵範に六生したという話を伝えている。これらの伝承は戦中の「七生報国」の観念と鑑みると興味深い。
※この「アニミズムと霊魂観」の解説は、「死生観」の解説の一部です。
「アニミズムと霊魂観」を含む「死生観」の記事については、「死生観」の概要を参照ください。
- アニミズムと霊魂観のページへのリンク