からくりの種類
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 03:52 UTC 版)
座敷からくり 座敷すなわち屋内で鑑賞するために作られたからくり。その多くは台の上に据えつけられた人形等が太鼓を叩いたり舞ったりするものであるが、茶運び人形のように移動するものもあり、また茶ではなく酒を注いだ盃を運ぶものもあった。これらは本来高価なもので、たいていは大名や豪商などが所有した。 からくり玩具 民芸品や郷土玩具として、日本各地で古くからその地方独自の、様々な仕掛けを持つ玩具があり、現在でもみやげ物として、販売される物も多い。また一時期は日本の輸出産業を支えた「ブリキのおもちゃ」の仕掛けも絡繰玩具に由来するものが多かった。 からくり傘 和傘のこと。中国由来の天蓋であった傘を、日本で開閉式の仕掛けを施した事で唐繰傘とも呼ばれたが、ふつう唐傘(からかさ)と呼ばれる。 からくり家具 からくり箪笥など。 からくり的 江戸時代に隆盛を極めた祭り文化により、市や縁日や温泉場で行われた弓矢や吹き矢の射的の的で、板でできた書割りで仕掛けが施してあり、当たった場所により的の書割りが動いた。大正時代まで主要都市の繁華街や温泉街の射的場に現存していたが、現在では「鬼泣かせ」という機械仕掛けの鬼の的の人形にその名残が見て取れる。 山車からくり 祭礼の際に曳かれる山車・車楽などに、からくり人形を載せたものである。山車の内部に囃子の演奏者と一緒にからくり操作者が乗り込み、曳行時や宮入り時に囃子の演奏に合わせてからくり人形を操作し、披露・奉納する形が一般的である。元和5年(1619年)に名古屋東照宮祭が始まって以来、名古屋を中心とする中京圏に集中的に分布し、主に愛知県と岐阜県に跨って特色ある祭礼文化を形成している。享保15年(1730年)に7代尾張藩主になった徳川宗春は「民と共に世を楽しむ」政策を実行し、8代将軍徳川吉宗の質素倹約策で自粛されていた東照宮祭の豪華に復活させ、他の祭や遊興を盛大に行う事を奨励し、活動の場を失っていた、京都の玉屋庄兵衛をはじめとする、全国のからくり人形師達を名古屋に招いてからくり人形師達が尾張地方に移住した事により、名古屋を中心とする中京圏で、からくり文化が発展し根付いた。名古屋中心部のものは大部分が第二次大戦の戦災で失われたが、岐阜県高山市の高山祭、美濃市の美濃まつり、愛知県犬山市の犬山祭、津島市の尾張津島秋まつり、半田市の亀崎潮干祭など、戦災を免れた山車が周辺地域には多く残っており、現在でも各社氏子の地元住民が、山車に乗り込んでからくり人形を操る姿が見られる。他にも京都祇園祭の蟷螂山が、御所車の上に乗ったカマキリのからくりで有名である。また江戸の山王祭・神田祭においても、山車の人形にからくりを施したものがあったという。 徳川園山車揃え(2015年6月、名古屋市・筒井町出来町天王祭) からくり披露(筒井町出来町天王祭・名古屋市) 舞台からくり おもに歌舞伎の舞台で使われるからくり。田楽返しや提灯抜け、葛籠抜けなど。また人形浄瑠璃の舞台では、現在では人形遣いの芸を見せるのが中心となっているが、近松門左衛門が浄瑠璃を執筆していた時代にはからくりが多用され、それが見せ場の一つとなっていた。 からくり屋敷 忍者屋敷などに見られる。
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