『文藝春秋』・菊池寛批判へ波及
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「文藝時代」の記事における「『文藝春秋』・菊池寛批判へ波及」の解説
そうした流れをきっかけに、以前から菊池との関係が芳しくなくなっていた今東光が、『読売新聞』紙上で以下のような勇み足の随筆を発表した。さらにその数日後にも東光は同紙上で、文芸の「復興」ではなく「建設」を目指す『文藝時代』のような新たな雑誌がこれまで夢想されなかったのは時代の罪であると息巻いた。 或る有力な作家の傘下に寄集する某々等がこの挑戦の途について朋党を結んだのは、恬然として恰も恥なきものであるといふのは、明らかに事理を逸した誤解である。何人がこの里巷の小人の言辞を弄するのだ。さういふ言葉を面白がらずに聞くならば、其こそ無理慮外の憎悪が籠つてゐると解釈する。妄りに醜辞を弄するのは士君子の執らないところだ。僕達は慎戒するところと、さうでないことの区別をちやんと知つてゐるのだ。(中略)僕の解釈だと、将来の日本文壇のために勇ましく巣立ちをしようといふ僕等だ。喜んでこそくれるのが然るべきのに、無遠慮にポアンダンテロガシヨンをくつつけるのは甚だ香ばしくないことだと思ふ。 — 今東光「人生を甞める舌」 その空気の中、さらにアナーキスト詩人の橋爪健が『読売新聞』紙上で、菊池の『文藝春秋』の「功罪」を追及しはじめ、「『文藝時代』が新進作家の大同団結によつて、一菊池のみならず既成文壇へのある種の挑戦を意味してゐると見られるならば、吾々は刮目してその将来を期待すべきであらう」と述べた。そして、「ともかく此の『文藝時代』の誕生によつて、文藝春秋はすでに“故”となつた」と二者の対立を煽り、その後も追及を続けた。 川端康成は、これらの対立を煽る醜聞や憶測に対して完全否定し、『文藝春秋』と『文藝時代』の不仲説が事実無根であることを説明しながら、事態を収拾するために菊池寛を以下のように完全擁護した。その後中河与一も、川端同様に事態の収束を図った。 私達が没個性を強ひられ、菊池寛氏の勢力扶植に利用されたと見るのは誤りである。若し没個性と見えたなら、それは私達が力足らなかつたのである。(中略)私達が菊池寛氏から受けた精神的並びに物質的恩恵は世間の想像する以上であらう。(中略)例へば、菊池寛氏の家を眺めても、街で菊池氏の家人に遇つても一種の感慨が湧く程に、深く沁みた感情を持つてゐるのである。一「文藝春秋」や、一「文藝時代」なぞに左右されるものではないのである。芸術的立場や世間的損得を超越して動かされない敬愛の念を持つてゐるのである。第三者からの余計な中傷や忖度は止して貰はう。 — 川端康成「『文藝時代』と『文藝春秋』」 横光利一も川端同様に噂を否定し、「私は文藝春秋のために多大の恩恵を受けて来てゐる。それに何故に足蹴にするか。足蹴にするべき理由は少しもない。これは私だけでは決してないと思ふ」として、「菊池師はわれわれの此の我儘を了解して赦されたのである」と菊池を気づかい、片岡鉄兵も、元『文藝春秋』同人の川端らが菊池を尊敬する点においては「従来と変りはないと信じる」とし、「立派な認識の上に立つた人と人との交渉には、ひろい、智的に自由な道徳がある」と両者の不仲説を『時事新聞』紙上で否定した。
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