『文覚勧進帳』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:00 UTC 版)
1889年(明治22年)、中村座初演。もともとは前年の依田學海と川尻宝岑の合作による『文覚上人勧進帳』を竹柴其水が書き換え『那智滝祈誓文覚』という外題で上演した。依田學海は『安宅』における勧進帳の話が広く受容されてしまっているが、その元は小説たる義経記であり、史実ではないことから、それに代わる演目として源平盛衰記等に基づいてこの作品を書いたと記している。脚本の歌舞伎化は原作者との論争を生み出したが、興行的には大当たりとなった。第四幕において作中眼目の白河院の御所で文覚が蔵人に組み伏せられ、抗いながらも勧進帳を読み上げる場面となる。岡本綺堂はこの部分の鑑賞時の体験について「在来の立廻りの型を離れた一種の柔道のような手捕りの掴つかみ合いを見せて、観客をはらはらさせた。(中略)なにしろ四人が一緒にこぐらかって、投げる、突く、蹴る、むしり付く、倒れる。倒れるたびに、舞台に身体を叩きつける音がばたりばたりと響く。そのあいだで団十郎が例の名調子で朗々と勧進帳をよみ上げる声がきこえる。この幕が下りると、わたしは自分の肌着がぐっしょりと汗にぬれているのに気がついた。」と記しているほか、十二代目守田勘彌もこの立廻りの採用に反対したことが伝わっている。九代目市川團十郎はこの四幕目を『文覚勧進帳』として新歌舞伎十八番のうちの一種に定めたが、1896年(明治29年)6月、明治座における再演時に、投げられた際に腰を強打し負傷、興行中止となった。一説にはこの時の怪我が晩年の衰えを早めたとも言われている。
※この「『文覚勧進帳』」の解説は、「勧進帳」の解説の一部です。
「『文覚勧進帳』」を含む「勧進帳」の記事については、「勧進帳」の概要を参照ください。
- 『文覚勧進帳』のページへのリンク